Qoly読者の皆さん、こんにちは。「オマーンサッカー史の分析」から少し間が空いてしまいまして、すいません。

こちらでのコラムの第3回は、今が旬の全日本選手権からです。明日の土曜日、22日には全日本女子サッカー選手権(全女)の準決勝、そして24日には決勝戦が行われます。また、23日には男子の全日本選手権の準々決勝も予定され、いよいよ大会も佳境に入ります。

もちろん、男子の大会は広く「天皇杯」と呼ばれていますし、「全女」も今年から「皇后杯」の授与が始まり、マスメディアなどではそう呼ばれるようになりました。そこで今回のコラムではこの2つ、「天皇杯」と「皇后杯」そのものについて、他の競技との関係にも触れながらご紹介します。

なお、最初にお断りを。古代や江戸時代には女性が天皇になる例がありましたし、先日の総選挙でも「女性宮家」や「女系天皇」の是非が論じられました。私は「男性=天皇、女性=皇后」という固定概念には立ちませんが、これはサッカーコラムですから、その問題には深く立ち入らず、男子の大会に天皇杯(盃)、女子の大会に皇后杯(盃)が授与されている現実に沿いながら話を進めます。


☆「天皇杯」の重み

まだ耳慣れない「皇后杯」と違い、日本のサッカーファンの間で「天皇杯」はすっかり定着しているだろう。この男子の全日本選手権大会そのものは大正時代の1921年度から始まっていたが、昭和天皇から当時の日本蹴球協会へ天皇杯が下賜されたのは1948年7月2日で、当時は東西対抗戦の勝者に授与されていた。これは前年に昭和天皇と皇太子(今上天皇)がこの試合を観戦したためである。

このように、どの大会に天皇杯や皇后杯が授与されるかは各団体に任されているようである。日本バレーボール協会も1950年度から天皇杯と皇后杯を男女の全日本総合選手権大会の優勝チームに授与しているが、これは当時の主流だった9人制の大会(現在でも「ママさんバレー」では9人制)。東京五輪での正式採用を控えた1962年度から6人制の全日本選手権に切り替えられた。

ただ、天皇杯や皇后杯が授与される大会は、ほとんどの場合が「全日本選手権」、つまり日本一を決定する大会となっている。バレーボールの場合、1980年度に天皇杯・皇后杯授与を日本リーグ(Vリーグ)優勝と一体にしたが、1996年に「黒鷲旗全日本選手権」の優勝を授与条件にした。同大会はVリーグだけでなく、大学や高校の上位チームにも出場権があるので、再び「全ての対戦相手に勝ったその年の日本一チーム」が天皇杯を得る事になった。2007年度からは都道府県代表も参加する全日本選手権が新設され、いわゆる「完全オープン化」が達成されている。

また、11月に全日本選手権を終えた後の全日本テニス協会のトップページには、現在でも男子シングルスで優勝した杉田祐一が菊の紋章入りの天皇杯を掲げている写真が掲載されている。大会名称には「天皇杯」は入っていないが、テニス界にとってもそれだけ重要なタイトルである事が伺える。

◆公益財団法人 日本テニス協会 http://www.jta-tennis.or.jp/index.html


☆東京六大学野球の歴史と伝統

ただし硬式野球だけは大きな例外で、東京六大学野球のリーグ戦優勝チームに天皇杯が与えられる。立教大学校友会のメールマガジン「立教タイムトラベル」では、このような経緯が紹介されている。

『東京六大学野球リーグの優勝校に授与される「天皇杯」。サッカーや国体などで知られる天皇杯ですが、実は東京六大学野球の天皇杯が一番古い歴史を持つそうです。昭和天皇が摂政宮であった1926(大正15)年に東京六大学野球に「摂政杯」を贈ったことから始まり、 戦争による中断を経て、1946年秋からリーグ再開を機に、「摂政杯」に代わって「天皇杯」となりました。』(第44回「1999(平成11)年 東京六大学野球秋季リーグ戦優勝」より)

この「摂政杯」には東京六大学の圧倒的な人気が関わっている。当時の野球では中学野球(現在の高校野球)にしか「全国大会」がなく、実力・人気共に東京六大学野球が他を圧倒していた。同リーグが支援して1926年10月に明治神宮野球場が完成し、明治神宮の施設の一部となると、摂政宮裕仁親王が試合を観戦してリーグ戦の優勝チームに摂政杯が贈られたという流れである。なお、神宮球場は1931年に六大学連盟の資金負担で観客5万人以上を収容する大球場となった。

その後、1927年には社会人で都市対抗野球が始まり、第二次大戦後は1936年に発足した現在のプロ野球が日本野球の最高峰となったが、日本シリーズ優勝チームに天皇杯を受けようとするプロ野球関係者の希望は「一競技に一つ」の原則によって今でも阻まれている。従って、「ミスター」長嶋茂雄は立教大学の優勝で天皇杯を2度獲得したが、「世界のホームラン王」王貞治は早稲田実業高校からプロ入りしたため、天皇杯は持っていない。軟式野球では全日本大会が天皇賜杯の対象となっているのを見ても、硬式野球の歴史と複雑さが見えてくる。

もう一つ、恐らく摂政杯授与に影響したのは、1925年の「六大学リーグ化」だろう。この時、初の国立大学として東京帝国大学(現在の東京大学)が参加した事で、皇室から杯を授ける大義名分が生まれた。つまり、特に戦前は皇族からの拝受はそれほど大層な出来事だったのである。

☆天皇杯授与の時代背景

硬式野球から離れ、再び天皇杯と皇后杯について考える。<表1>は、現在天皇杯や皇后杯が授与されているスポーツ競技の「全日本選手権」について、その発足年と天皇杯・皇后杯授与年をまとめ、天皇杯授与年が古い順から並べたデータである(同年の場合は皇后杯授与年を規準にした)。

基本的には各競技団体への電話での問い合わせで回答を受け、Wikipedia等によるネットでの検索によって補足した。この場をお借りして、御協力いただいた各団体の皆様に御礼を申し上げる。ただし、これはいくつかの留保事項があり、それは補足の形で説明する。

<表1>各スポーツ競技の全日本男子・女子選手権開始年、及び各大会への天皇杯・皇后杯授与年


天皇杯-皇后杯

この表から除外した競技として、軟式テニスとアマチュア相撲がある。軟式テニスは1923年に男女の全日本選手権が開始され、1946年に天皇杯・皇后杯の授与が始まったという記載がWikipediaにあるが、あくまで未確認情報の一つであり、日本ソフトテニス協会による裏付けがなされたものではない。また、アマチュア相撲は日本相撲連盟によって1952年から男子の全日本選手権が行われているが(女子は未開催)、天皇杯授与年の確認はできなかった。

改めて<表1>を見ると、天皇杯の授与年には明確な傾向がある。つまり、馬の品種改良という軍事上の明確な目的があった競馬と、伝統神事との関係が非常に深かった大相撲を除き、16個の天皇杯はいずれも戦後に授与され、特に1946-51年に10個が集中しているのが分かる。1945年の敗戦で日本が連合国軍により占領され、昭和天皇も戦争犯罪人として裁かれる危険性が高かったが、全国行幸でも示された圧倒的な支持により「神聖不可侵の大元帥」から「新憲法での国民統合の象徴」に移行してその地位を保ったこの時期、スポーツは混乱する世相に明るい光を差す存在として親しまれた(なおこの時代については『総天然色で見る日本の終戦』もご覧頂ければありがたい)。そこで宮内庁は国民体育大会(国体)を筆頭に各大会への天皇杯授与を積極的に進め、それを光栄に感じ、信用や認知度の向上に努めた各競技団体が応じた、という構図が見て取れる。国体も戦前に東京で固定開催されていた「明治神宮大会」の後継と考えると、東京六大学野球の「摂政杯」からの変更と重なる。つまり、元々あった皇室とスポーツとの関係が「平和国家建設」の下に一気に深まったという流れである。

その中で、既に述べたように1947年の東西対抗戦で皇太子(現在の今上天皇)を伴った昭和天皇の天覧サッカーが実現し、翌1948年の同大会から天皇杯が授与された。1951年から全日本選手権の優勝チームに天皇杯が授与され、戦争の金属供出で失われたイギリスからのFA銀杯(2011年から復活)に代わる同大会の象徴となった。

(追記:その点で言えば、1921年の第1回大会から天皇杯が授与されたという日本バスケットボール協会の回答には、非常に強い疑問が残る。問い合わせへの御回答には感謝する一方、1930年の皇后杯授与と共に、この時期に皇室から特別扱いされる理由と事実があったのか、この年代が正しいという積極的な論拠は私には見いだせない。)


その後、1952-60年は柔道・剣道・弓道と3つの大会に対して天皇杯授与が始まった。これらはいずれも軍国主義を支えた武道として戦後の占領期に活動が大きく制限され、学校教育からも追放された種目で、独立回復と共に他競技に追い付いた形である。その後は1977年、体操とレスリングに天皇杯が授与された。1976年のモントリオール五輪、体操は男子団体総合で日本が大会5連覇を達成し、レスリングでは高田裕司が2年前の世界選手権から3年連続世界一となっていた。これほど圧倒的な結果を残した事が、武道以外では四半世紀ぶりの天皇杯授与につながった。言い換えれば、少なくともこのレベルまで世界で勝たないと「天皇杯」には届かない、とも言える。


☆異色の皇后杯授与

<表1>に戻り、女子の大会に対する皇后杯授与を見ると、天皇杯以上にその例が少ない事が分かる。多くの種目で全日本選手権の開催自体が男子より遅れたという事情もあり、戦後の天皇杯ラッシュの時期にも皇后杯授与は3つ、国体・卓球・バレーボールしかない(時期があいまいなバスケットボールは除く)。そして、卓球は1956年から1967年まで8度の世界選手権で日本選手が7回優勝し(ダブルスでは1952年に初優勝)、バレーボールは「東洋の魔女」が1960年初参加の世界選手権で準優勝、1962年には優勝して1964年の東京五輪金メダルへと進んだ。つまり、世界レベルの実力を証明しつつあった、それほど盛んだったからこその皇后杯授与だった訳である。

また、1990年代からは武道系種目での皇后杯授与が進められた。明治以降は女子のたしなみと見られ、現在でも女子の方が圧倒的に競技人口の多いなぎなた(長刀)は初の賜杯として、他の3種目でも男子の天皇杯より40年前後遅れての実現となった。この時期に男女同権への動きが活発となり、1999年に男女共同参画社会基本法が成立する社会変化の流れに乗ったとも考えられる。

ただし、基本的にはこれは武道のみを対象としたもので、21世紀に入ってからは再び途絶えていた。2010年、相撲に続く「原則からの例外」として、陸上に対する2つ目の天皇盃・皇后盃が都道府県対抗駅伝の男女優勝チームに贈られる事になったのが、皇后杯(盃)では13年ぶり、天皇杯では33年ぶりの新規授与だった。これも、それに先立つ2000年のシドニー五輪(高橋尚子)と2004年のアテネ五輪(野口みずき)が女子マラソンで優勝したという実績を踏まえてと想定される。

こう考えると、今回の「全女」への「皇后杯」授与はやはり異例と呼べるだろう。女子サッカーの強化は徐々に進められ、「なでしこジャパン」も世界大会への出場が続くようにはなっていたが、アテネ五輪ではベスト8止まり、2007年の中国W杯ではグループリーグ敗退でそこにも残れなかった。2008年の北京五輪4位でようやく世界のトップクラスに追い付く手応えは得ていたが、まだメダルには手が届いていなかった。2011年のドイツW杯、準決勝勝利後の澤穂希の興奮ぶりがその重みを示している。そこからのW杯優勝と五輪銀メダルは快挙だが、他の種目と比較すると、かなり早い段階で皇后杯が授与されたと言っても良いだろう。澤のバロンドール獲得とはまた違った意味を持つ栄誉を受け、男子の天皇杯と揃える事ができた日本サッカー協会の喜びは格段に違いない。

特に、世界選手権で4回連続決勝戦進出の末に2012年に42年ぶりの優勝を果たし、五輪でもシドニー銀、アテネ銅、そして北京で悲願の金メダルを獲得したソフトボール女子を考えると、明暗がはっきり分かれた。個人的には何とか上野由岐子にも皇后杯獲得の可能性を与えて欲しいと願う。

この皇后杯授与は恐らく正式発表前に内示されたはずで、これがどうしても「前座」感が抜けない、元日開催の天皇杯決勝との分離を進める動機になった、という憶測もできる。そのような「深読み」もしながら、なでしこリーグとの二冠を狙うINAC神戸レオネッサに浦和レッズとジェフ千葉のJリーグレディース勢2チーム、そして先日引退を発表した宮本ともみが奮闘する伊賀FCくノ一が「初の皇后杯チーム」を目指す戦いに注目したい。ジェフは男子も天皇杯でベスト8に進出しているので、ヴェルディ・ベレーザに続く2例目の「同一母体男女同年度優勝」の可能性も残っている。


☆クイズ・「天皇杯」女

最後にクイズを。ここまでずっと見た通り、「天皇杯」は男子の大会、「皇后杯」は女子の大会に贈られるのが通例となっています。ところが、その天皇杯を3度も獲得した女子のスポーツ選手がいます。それは誰でしょう?正解は、何とか年内に、次回のコラムで発表します

筆者名 中西 正紀
プロフィール サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。
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