日独関係は日本が明治維新で開国して以来、英国、米国と並び重要なものであり続けてきた。

大日本帝国とナチス・ドイツとの同盟から第二次世界大戦の敗戦を経て、国家間の関係はやや疎遠となったが、先月、90歳で亡くなったドイツ人デットマール・クラマー氏が“日本サッカー界の父”と言われるまでにサッカーを発展させるなど、勤勉な民族同士の関係は脈々と受け継がれてきたのである。

現在もブンデスリーガで数多くの日本人選手が活躍しているが、その礎を築いたのが今年63歳になる奥寺康彦氏であった。

1970年から古河電工に所属し日本代表にも選出されていた奥寺氏は1977年、名将ヘネス・ヴァイスヴァイラーの誘いで25歳の時にドイツ1部・ケルンへ加入、欧州における日本人初のプロ選手となった。

奥寺氏は加入初年度にいきなりブンデスリーガとカップの2冠を達成し、翌年には欧州チャンピオンズカップで準決勝へ進出したチームの主力として活躍。その後、ヘルタを経てオットー・レーハーゲル率いるブレーメンで左ウイングバックとして不動の地位を築き、「東洋のコンピュータ」とまで評されたのである。

その奥寺氏がケルンと契約したのが今から38年前の10月6日(※)であったことを、ケルンの日本語版公式ツイッターが伝えている。

(※)Wikipediaでは10月7日となっている

当時は日本サッカー冬の時代で、奥寺氏の活躍にもかかわらず後に続くものは現れなかった。

しかし関係者の不断の努力でJリーグが発足し、一躍スターとなった三浦知良が先駆者としてセリエA・ジェノアへ移籍。結果は残せなかったものの、その姿を見てきた中田英寿がペルージャ、ローマでセンセーショナルな活躍を見せ、世界で日本人の評価を劇的に高めることとなる。

そうした時代の変遷のなかでドイツでも高原直泰、稲本潤一、長谷部誠が続き、そして、ドルトムントを連覇に導いた香川真司の伝説的な活躍によって、その後の“日本人ブーム"が到来し現在に至っているのだ。

まさに歴史は地続きといえよう。SNSや掲示板などでは過去と現在の選手を比較した論争が毎日のように繰り広げられている。それは大変結構なことであるが、全ての人間が先祖代々から受け継がれてきたように、過去のない現在も未来も存在しないのである。

ゼロから1を生み出すのと、1を2に積み上げる差は果てしなく大きい。奥寺氏のような暗闇の世界に光を灯した先人達の苦労に想いを馳せ、今を生きる我々が新しい未来を切り開く糧としたいものである。