「システムの構築者」田嶋幸三の登場

田嶋が代表でプレーしたのは、この広州が最後になりました。同年4月に古河電工へ入社。JSLでもプレーしていた田嶋はわずか3年で退社し、25歳で現役引退を決めました。

新たな進路は当時のスポーツ科学の最先端、西ドイツのケルン体育大学への留学。1986年までここで学び、帰国後は母校の筑波大で体育学で修士号を得ました。以後、立教大で講師から助教授、さらにもう一度筑波に戻って客員助教授と、学術研究の道へ進みました。

田嶋は同時にJFAでの仕事を進めていきます。最初は1994年に強化委員会の副委員長(委員長は加藤久)として、1998年には特任理事兼競技委員として。

そして1999年、大学や社会人を含め、自身でも初めて監督としてU-16日本代表を率いる事になりました。その後フル代表になった藤本淳吾などがいたこのチームはアジア予選を突破し、2001年には矢野貴章らを加えてU-17世界選手権にも参加しました(トリニダード・トバゴ開催、1勝2敗でグループリーグ敗退)。

田嶋はそのままU-19代表監督にも持ち上がり、2002年のアジア選手権を勝ち抜いて翌年のワールドユース出場権を獲得しましたが、技術委員長への就任により大熊清に監督を引き継ぎました(ワールドユースでは川島永嗣、今野泰幸、徳永悠平らが出場)。

2002年、JFAの常務理事兼技術委員長となった田嶋は、サッカー界の強化や対外折衝の中核として活動していきました。2006年のドイツW杯後は専務理事に昇格し、多くの改革を開始します。

田嶋自身が最も強調した業績の一つは、同年4月に開校した中学・高校生年代の育成学校、JFAアカデミー福島(2011年の福島第一原発事故後は静岡県内で活動)の初代スクールマスターです。フランスを例とした6年間全寮制のこのスクールは田嶋の故郷である熊本などを含め全国4カ所に拡大し、特に女子では福島出身の1期生になる菅澤優衣香と山根恵里奈が2015年のカナダW杯準優勝メンバーとなる実績を挙げました。

また、2007年にはAFC(アジアサッカー連盟)競技委員とJOC(日本オリンピック委員会)理事(※2013年からは同常務理事)、2011年にはAFC技術委員長と、JFA以外の組織でも次々と要職を得てきました。

そして、2010年には小倉純二会長の下で副会長(2012年までは専務理事も兼務)となり、2015年に2度目の挑戦で念願のFIFA理事に当選しました。

小倉・大仁の2代6年にわたりJFAのナンバー2として活動した田嶋は、間違いなく現在の日本サッカーのシステムに深く関わってきた「構築者」です。小倉退任時にも後を継ぐかという観測もあった田嶋が今回会長を目指すのは、本人や多くの周囲の人々にとって、いわば当然の流れだったでしょう。

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