英国発・欧州至上主義の波及?

これと表裏一体なのが、W杯の出場国配分の問題です。

1950年ブラジルから1982年スペインまで、そして2018年ロシアを含めた各大会は、こういう形になっていました。

<表1>1950-82年・2018年のW杯大陸別出場枠


カッコのない数字が大陸枠としての出場国数、( )内は開催国・前回優勝国での追加。
1950年は本大会出場決定後に3カ国が出場辞退、< >で内訳を記載。1950-62年の大洋州と1950年のアフリカは予選参加国がなかった。1958年の「アジア+アフリカ」は最終的に欧州とのプレーオフが行われ、本大会出場国はなし。欧州からは10(+2)カ国が出場。1962年の欧州は実際には「8+0.5+0.5」、本大会には10カ国出場。

第二次大戦後、リメの下で行われた2度のW杯は、1950年のブラジル大会では米大陸、1954年のスイス大会では欧州に多くの出場枠が使われました。当時の交通事情ならばある程度納得できる判断です。

ところが、1950年代にアジア諸国のFIFA加盟が増え(日本のFIFA復帰は1952年、AFC結成は1954年)、1960年をピークにアフリカの旧植民地が次々と独立しても、イングランド人の会長を迎えたFIFAは門戸を広げず、出場国枠はむしろリメ時代から後退していきます。

1958年のスウェーデン大会ではアジアとアフリカをまたいで設定された予選グループの勝者に出場権が与えられましたが、この時は対戦相手から全て試合を拒否されたイスラエル(1974年にAFC除名、その後UEFA入り)が一度も試合をせずに出場権を確保したため、FIFAが欧州予選敗退国から選んだウェールズとの対戦を命じ、結果としてアジア・アフリカからの出場はゼロ、本大会のグループリーグは4つとも「欧州3カ国対中南米1カ国」となりました。

そして1966年のイングランド大会では遂に事件が。加盟数が15カ国まで増えたアフリカ諸国の要求をはねつけて「アジア+大洋州+アフリカで合わせて1つ」という決定になりました。ラウスとしては、これでも「1962年は大陸間プレーオフでアジア代表の韓国がユーゴスラヴィアに、アフリカ代表のモロッコがスペインに負けたのだから(他にイスラエルとエチオピアが欧州予選に参加し敗退)、1つ確保しただけでも譲歩だ」という事だったのでしょうが、これに不満を示したアフリカ諸国が全面ボイコット、さらに韓国もこれに同調し(日本はメキシコ五輪出場を優先させて不参加)、2カ国だけになったこの予選ではオーストラリアに勝った北朝鮮が本大会に出場しました。

この北朝鮮はイタリアを下してベスト8進出の快挙を果たしましたが、準々決勝ではエウゼビオに4ゴールを許して力尽きました。エウゼビオはモザンビーク出身の黒人選手で、サラザール政権が海外植民地から撤退せずにいたのでポルトガル代表として大会に参加していたという、皮肉な巡り合わせでした。

このアンバランスの是正が始まったのは、アベランジェになって2度目のW杯、1982年スペイン大会での出場国増加です。24カ国になってトーナメント表は不安定になりましたが、それまで1つだった北中米・アジア+大洋州・アフリカが全て2カ国出場になり、各国にとってW杯がより身近になりました。

仮に1974年、西ドイツ大会の感覚でロシア大会の枠を割り当てたらどうなるでしょう?まさかそのまま2倍ではないでしょうが、アジア2.5、大洋州0.5、アフリカ3と絞り、4枠を欧州と南米、それに前回優勝国の復活に向ける可能性は高いと見ました。南米が5.5になったとしても、グループリーグで欧州3カ国が同居する事になれば、これをW杯と呼べるのでしょうか?これでは1950年代に逆戻りです。

テレビ放映権を原資にしたメガクラブの出現で、サッカーが再び欧州中心に回帰したのは誰の目にも明らかです。「レベルの高い試合」を求めるなら、「アジアの5位」や「アフリカの5番目」より、欧州予選の各組2位プレーオフ敗者の方が見たいという声は分かります。

ただ、W杯は世界中のサッカーファンが集まる場所であって欲しいし、あるべきなのです。そして、この「世界化」に水を差す番組を作ったのが、フットボール・マネーゲームの中心であるイングランドという部分に、私は不安を覚えます。

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