━━その後、最終的に念願であったプロ入りが叶います。しかし、練習参加時は監督がポポヴィッチで、入団後に監督がファンボ・カンに変わるというパターンでした。
そうなんですよね。ポポヴィッチが僕の入団を決めてくれたんですが、いざ入ってみると、もうチームにはいなかった。獲得に動いてくれていた強化部長も変わりました。
━━その時の不安はなかったんですか?
具体的に入団の話が出た後に「経営危機」の問題が浮上したんですよね。当時は「チームがなくなるんじゃないか」という話までも出ていました。
なので、実際に「契約」を結んだのは年が明けての1月とかで…提示条件もなかなか厳しいものでした(笑)
ただ、当時の僕はプロに入れるだけで嬉しかったので、当然サインしました(笑)
━━入団後はどうでしたか?たしか、チームもファンボ・カン体制になって戦い方が変わり、基本システムも4バックに変わりました。
そうでしたね。最初は一つ前のポジションでやっていたんですが、シーズン途中に左サイドバックの選手が累積警告か何かで出場できない時があって、そこからは左サイドバックで使ってもらいました。
━━サイドバックの経験は?
いや、全くでした(笑)中学の時のコーチがサイドバック経験者だったこともあって、「ちょっとやってみないか」と言われてかじったぐらいです。
自分が入った時も、チームの主力だった鈴木慎吾さんが抜けて、その左サイドハーフ候補として入団した感じでしたからね。
━━思っていたポジションとは違うポジションでの起用となったわけですが、当時の心境は?
まぁ、前はめちゃめちゃ上手い選手ばかりだったので、「自分が生き残っていくにはこのポジションかな」と思うようになっていましたね。
東(慶悟)、(キム・)ボギョン、河原(和寿)さん、(高松)大樹さん、前田(俊介)さん、モリシ(森島康仁)などが錚々たる面子が揃っていましたから。
後は、実際にチームに入ってみて、「自分がJで戦える部分は上下動」と考えるようになったので、継続して試合に出るためにも「サイドバックで勝負」だと思ってやってました。
大分トリニータで念願のJリーガ―となるが、その後はまさかの「海外生活」に突入。波乱万丈の日々を振り返る『Vol.3』も乞うご期待。