――えっ、1999年にですか?(驚)

そうです。ちょうどシドニー五輪の予選をやっていた時で、高原が東京にいて、北千住でフットサルをやるからとホテルまで迎えに行ったんですよ。

顔も分からないので知り合いに電話してもらって、出てきて車に乗せて北千住へ連れて行きました。それでフットサルをやりだしたら、めちゃめちゃ上手い(笑)。

当時はまだ高原を知らなくて、「お前サッカー上手いじゃん。他にもできる仲間いる?」と聞いたら、いると。それで呼んでもらって来たのが、稲本潤一と中田浩二でした(笑)。

フットサルのあとフットサル場のオーナーが彼らにサインを求めていたので、聞いたら前日に予選を戦った選手たちだと。そこで初めて知ってご飯を食べに行って仲良くなった感じです。

もう20年以上前になりますね。当時僕はスタイリストをやっていたので仕事のほうでの絡みもありましたが、プライベートでの接点が多かったです。

即決し、沖縄へ

――沖縄にクラブを作る話はどういった形で出てきたんでしょうか?

もともと、沖縄県には産業としてスポーツを推進していきたいという考えがあったんです。その話を知り合いから聞いて僕が一度沖縄へ行き、持ち帰って高原に「こういう話があるんだけど」と話しました。

高原は当時、J3のSC相模原で2年目を迎えていました。

いろいろ話し合ったんですが、その中で「新しいことをやるのであれば、今のままのパワーで行ったほうが面白いよ」と伝えたんです。ただもちろんマイナス面もあって、本当のゼロからやらなくてはいけないので、覚悟は要ると。

そう言ったら、本人は即答でした。「わかりました。それ、やりましょう」と。

返答の期限まで1日か2日くらいしかなくて、正直厳しいだろうなと思っていたんですけど、そこでもうパパッと決まりました。

個人的には、“もらい事故”みたいなものでしたね(笑)。やるとなれば、自分が大変になるのは目に見えていたので…。高原はSC相模原との契約があったのでまだ選手としてプレーする以上、僕が全部動かないといけません。だから最初、一人で沖縄へ来たんです。

自分で会社は経営していましたけど営業はやったことがなかったので、本当に一からでしたね。一軒一軒チャイムを鳴らして、時に怒られたりもしましたがそういうところには逆に何度も行きました。そのうち気に入ってくれて、お金を出してくれたりと。

僕らは最初から本気で、骨を埋めるつもりで来ていたので気持ちは伝わったのかなと思います。高原は当時持っていたマンションや車などを全部売りましたし、住民票も沖縄に移しました。

そう。それだけ気持ちが入っていたので、テンションも上がって「どうせなら沖縄まで車で行こう!」ということになったんです。

せっかくだから人にも会おうということで、あちこち寄り道しながら2人で九州まで行って、いよいよ鹿児島。ただそこで大雪に見舞われました。

フェリーも動かなくなってしまい、ホテルで数日間運行再開を待っていたんですが、ちょうどその時仕事が入って、僕だけ東京に帰らないといけなくなってしまって。

結果、高原は車と一緒にフェリーに乗って、1人で26時間かけて沖縄へやってきました(笑)。

※すごい話の連続に驚きを隠せない『サカつく』宮崎P。