川崎U-15で足元の技術を磨いた猪狩だったが、高校年代では神奈川県の強豪・日本大藤沢高(以下日大藤沢高)へ進学した。クラブチームから高体連への進学に戸惑いもあったが、中心選手として活躍。

全国高校サッカー選手権大会出場通算7回を誇る名門での日々は、川崎アカデミーで得られなかった責任感と自信をつけることにつながった。

日大藤沢高で生まれた責任感と自信

――高校年代で神奈川県の日本大藤沢高に進学した経緯を教えてください。

「小学校5年から中学校3年までの5年間をフロンターレでお世話になって、その間も出られない時期はありませんでした。だから正直なところ、ユースには上がれると思っていたんです。

でも中学3年の1月から3月まで腰をケガしてしまった。(川崎の)ユースのセレクションには何回か行かせてもらっていたんですが、あまり手応えがなかったですし、合否のときには『保留』と言われていました。

その中で監督とお話しをさせてもらったときに、『高体連に行った方が伸びると思う』と言ってもらえました。結果的に自分はユースへ上がれなくて、そこで一番最初に日大藤沢が声をかけてくれました」

産業能率大学サッカー部提供

――具体的にはどのような言葉をかけてもらったのですか。

「日藤の監督がすごく情熱のある人で、『こんな人いるんだ』と思いました。自分をすごく欲しがってくれたうえで、日藤の良さやサッカーに対する熱意を強く伝えてくれました。率直にうれしかったですし、この人のもとでサッカーをしたいと思った。クラブチームから高体連に行くことに不安もありましたが、選手権にも出たかったので日藤への進学を決めました」

――高体連に行った方がいいと言われた理由を教えてください。

「自分自身が伸び悩んでいた時期でもあったからだと思います。ケガ明けからなかなかパフォーマンスが上がらず、ユースに上がれないんじゃないかという不安や焦りもありました。そのときに、高体連で試合に絡んだ方が注目されるし、人間性も含めて成長できるかもしれないと言ってもらえました。結果的に、日藤に行く選択をして良かったです」

産業能率大学サッカー部提供

――日大藤沢高で成長した部分を教えてください。

「自分の技術に自信を持てました。フロンターレでは周りが上手だったので、自分が何かに突出していると思えなかった。でも初めて日藤へ行ったときに『自分、結構やれるな』と思ったんです。

フロンターレの選手たちに囲まれた中でサッカーをすれば、上手くなると思います。でも自分は日藤の中心選手としてプレーすることにより、自信を持つことができた。そこが一番の強みになっていると思いますし、『自分がやらなきゃ』という責任感も生まれた。いい意味で自由にやらせてもらったことで、プレーにも幅が生まれました」