2025年8月2日、ノエビアスタジアム神戸である試合が行われた。
その名も「ヴィッセル神戸30周年記念チャリティマッチ LEGENDS MATCH」。兵庫県神戸市を本拠地とする「ヴィッセル神戸」の創立30周年を記念したスペシャルな試合だ。

白黒VSクリムゾンレッド

「KOBE DREAMS」と「WORLD DREAMS」で相対した試合は、前後半で両チームがクリムゾンレッドと白黒のユニフォームをまといプレーしている。

ヴィッセル神戸のユニフォームカラーは2種類あり、1995年から2004年にかけては「白黒」、2005年からは「クリムゾンレッド」となっている。

純粋な年数もだが、2023年と2024年にJリーグを連覇し、名実ともに国内最強クラブの一角に数えられている現状では、クリムゾンレッドの方が世間一般的な認知度は恐らく高い。

しかしながら、創設から昇格、そして最初のJ1時代の大半を過ごした白黒の10年があったからこその20年、そして30年のクラブ史。LEGENDS MATCHは、それを改めて実感する時間となった。

なお筆者は、この試合において、両チームが白黒・クリムゾンレッドそれぞのユニフォームを着用することを把握しておらず、後半開始時に「あれ?エンド変わってなくない?」と錯覚してしまったのであった。

時代を彩った名手たちの共演

画像: 写真:共同通信

写真:共同通信

試合はボールを大事にするKOBE側に対し、“トップチーム”同様に縦に速い展開を見せるWORLD側という構図。開始から10分も経たないうちに、ボッティ・レアンドロという、2007年のJ1昇格時に猛威を振るった名手が続々とネットを揺らす。

となると、お次は当時エースナンバー「13」を着用した大久保嘉人!

かつての“庭”でもある左サイドを駆け上がったのだが、そこに立ちはだかったのが、残念そこはシジクレ…と似た髪型の近藤岳登。

前日放送された自身がメインパーソナリティをつとめるラジオ番組内では、試合に対する意気込みを熱く語るなど、とりわけ高いモチベーションを見せる中で、ヨシトとのデュエルや、現役時と変わらず右サイドを疾走していた朴康造とのやり取りなど、2000年代後半にトモニ戦った戦友たちとの競演にスタジアムも湧く。

ところで、ヴィッセル神戸では、ホームゲームで勝利した際、試合後ゴール裏に選手が集まり、サポーターとトモニ神戸讃歌を熱唱するのが恒例となっている。これを考案したのが他ならぬ近藤岳登。

今でこそ毎試合多くの観客が来場し、応援も迫力あるものとなったヴィッセルだが、かつては空席も目立ち、応援も統一感がなかった。

そんな時(確か2009年ごろだったと思う)、とある勝ちゲームの試合後に音頭を取って、ゴール裏に選手が集まり、全員で肩を組んで神戸讃歌を歌いだしたのがはじまりだ。今でこそタレントの一面も強い“がっくん”ではあるが、彼もまたヴィッセルの歴史の一部だ。

現在では大迫勇也、武藤嘉紀、酒井高徳を筆頭に、往年の名手が多数在籍してきたのもヴィッセル神戸が持つ特徴だ。

この試合でも、国内では「キング」三浦知良、岡野雅行、三浦淳寛、槙野智章。海外ではフェルマーレン、キム・ドフン、キム・ナミル、ハ・ソッチュ、チェ・ソンヨンなどといった名手がプレー。それぞれが当時に加え、現在あるいは過去のユニフォームを纏った雄姿も見られたのは、この試合だからこその光景といえる。

激しい点の取り合いに

試合は後半から激しい点の取り合いとなる。

まずは岡野が獲得したPKをキングカズが決め、KOBE側が1点を返す。代名詞の「カズダンス」は、トシちゃん(田原俊彦)の『抱きしめてTONIGHT』の振り付けを取り入れたバージョンを披露。

その後、WORLDが田代有三の現役時を彷彿とさせる豪快なヘッドで追加点、それに対しKOBEはゴール前のこぼれ球を三原雅俊が冷静に決める。

このまま試合終了かと思いきや、終了間際にステージ優勝を争った2016年のキャプテン・渡邉千真がゴールラッシュ。当時と変わらない勝負強さで逆転し、KOBE側が4-3で勝利した。

画像: PKを決めて、 「WORLD DREAMS」の朴康造選手(左・7番)、槙野智章選手(中・14番)らと喜びを分かち合う「KOBE DREAMS」の三浦知良選手(右)  写真:共同通信

PKを決めて、 「WORLD DREAMS」の朴康造選手(左・7番)、槙野智章選手(中・14番)らと喜びを分かち合う「KOBE DREAMS」の三浦知良選手(右)  写真:共同通信

囲み取材にて

いつもと同じく神戸讃歌の熱唱が終わった後、初代監督で、初のJ2生活となった2006年にも指揮を執ったスチュアート・バクスターがミックスゾーンに現れ取材対応。

約20年ぶりの“指揮官”であったが、当時と変わらない風貌。もうずいぶんとお年を召したのでは?と思ったが、今年で71歳。2歳年上のクラウディオ・ラニエリが、昨シーズンASローマで監督を務めたことを考えれば、そう不思議なことでもない。

2006年時はヴィッセルが「育成型クラブ」を謡ったタイミングだった。しかしながら当時生え抜きでレギュラーと呼べるのは、北本久仁衛、河本裕之、田中英雄くらい。ユース出身者は定着すらできていなかった。

そこからこの日ゴールを決めた三原雅俊や、森岡亮太が登場し、ユースからも、森岡とともにすい星のごとく現れ「13」を纏った小川慶治朗(現、富山)、リオ五輪代表岩波拓也(現、浦和)、そしてキャプテン(山川哲史)とエースナンバー(佐々木大樹)がユース出身とまでなった。その変遷は成績にも反映されている。

ヴィッセル神戸は始動日だった1995年1月17日に阪神大震災が発生し、未曾有の大災害からクラブ史がスタートしている。その後も経営難から2003年に民事再生法の適用を申請し、現会長の三木谷浩史が代表を務めるクリムゾンフットボールクラブへと譲渡されるなど、Jリーグ全体で見ても苦難の歴史を歩んできた。

当時を知るバクスターだとその想いもひとしおだったのだろう。20年後、アジアでも屈指のチームとなったことに信じられない気持ちもありつつ、感慨深くあったと語った。

同様の感想を発したのが、「ミスター神戸」永島昭浩。

この日はKOBE DREAMSの監督を務めつつ、エースナンバー「13」を纏って時にピッチにも登場。石末龍治・和田昌裕との三羽ガラスが還暦を迎えて集結した雄姿に、胸が熱くなったサポーターも多かったであろう。

震災の爪痕が残る1995年シーズン途中に加入し、トモニ昇格の歓喜を味わったバクスターの姿を見て涙が出てきたと語り、時折声を詰まらせながら、ただただ感謝しかないと振り返ったのが印象的だった。

それぞれの「同窓会」

画像: 筆者撮影

筆者撮影

文面でお察しいただいた方も多いかもしれないが、筆者はヴィッセル神戸サポーターだ。

兵庫県で生まれ育ったこともあり、小学生の時に誕生したおらが町のJクラブは自然と興味の対象になった。

2007年ごろからは観戦もするようになり、2度目のJ2生活となった2013年からは頻繁に参戦。以前は関東圏に住んでいたこともあり、アウェイに馳せ参じることもしばしば。

現在はまた兵庫県在住なので、暇を見つけてはノエスタに足を運んでいるが、この日は“居住地”と真逆の記者席であった。

ヴィッセル神戸のユニフォームカラーは2種類あり、1995年から2004年にかけては「白黒」、2005年からは「クリムゾンレッド」となっている。

2019年の天皇杯優勝以降、強豪クラブとしての地歩を固めているヴィッセル神戸だが、そこに至るまでの20数年がクラブ史全体では“多数派”。バクスターや永島昭浩以外でも、その変貌ぶりに驚いている元選手は数多くおり、それはサポーターも同様だ。

とはいえ、この感覚はユニフォームとエンブレムが変わって間もなかった2010年ころに近いものがある。立ち位置が変わった現在では、白黒へのノスタルジーこそ増したものの、クリムゾンレッドに抵抗を持っている人間はもはやいないだろう。大切なのはそれも含めた歴史を語り継ぐことだ。

試合はボールを大事にするKOBE側に対し、“トップチーム”同様に縦に速い展開を見せるWORLD側という構図。開始から10分も経たないうちに、ボッティ・レアンドロという、2007年のJ1昇格時に猛威を振るった名手が続々とネットを揺らす。

この日の試合前は新旧エンブレムで子供たちが入場

画像: この日の試合前は新旧エンブレムで子供たちが入場

「LEGENDS MATCH」を通じて感じたのが、各所で「同窓会」の様相を呈したことだ。

それは永島昭浩・和田昌裕・石末龍治の「兵庫・高校三羽ガラス」といった選手間だけではない。当日のスタジアム内ではスタッフ同士が再会を喜ぶシーンに遭遇した。聞くところによると、かつては同僚だったが部署異動で話すことがなくなったという。

この日は数年ぶりに会えたとのことで抱擁して喜ぶ様子は、筆者も思わず笑顔になる微笑ましいシーンだった。こうした裏方さんもまた、ヴィッセル神戸が築き上げた30年に欠かせないピース。これを見れただけでも、この試合を開催した意義があったといえる。

取材・執筆:向山純平

This article is a sponsored article by
''.