幼少期に、部・クラブ活動や地域のサッカーチームに所属した経験のある方に問おう。その時コーチや監督から、果たしてどういった指導を受けていただろうか?

重ねて、同上の条件に当てはまるお子様がいらっしゃる、保護者の皆様にお訊ねしたい。

お子様が指導を受けている場面を、直に参観された経験はおありだろうか。果たして、それはどういった内容であったか。

知識や認識として持ってはいても、実感が伴わなければ危機感を抱くことはできない。つい先日、つくづくそう感じさせられた一件があった。

今回は幼少期における育成について、しばし私見を語ってみようと思う。

◯フットボール・センスの育成とその弊害

昨今、蹴球日本代表チームにかかる期待と人気は、半ば異常と言える状態にある。

過去最高のクオリティを誇る現陣容の主力は、多くが海外の戦場でも一流と認められたサムライである。「本場」「海外」「国際舞台」――これらの響きに弱い日本人が 、その活躍に一喜一憂するのはある意味必然とも言えるが。

何にせよ、どのような経緯であれ日本のフットボールシーンへの注目が高まり、多くの注目を集めていることは、おおいに喜ばしいことと思う。

だが、果たしてこの熱気はいつまで続くのだろうか?

さながら戦後の復興、高度経済成長期を経て先進国の一角へと返り咲いた我が国の繁栄に倣うが如く、日本のフットボールシーンは1990年台より、急激な成長を遂げてき た。

海外の識者を含む多くの関係者は、この極東アジアの島国の成長と、その裏にある勤勉さを讃え、潜在的な可能性に言及する。事実、Jリーグの開幕以来のこの20年、国内リーグの人気こそ当初の熱気を失ったものの、選手個々のクオリティは飛躍的に上昇した。その事実に疑いの余地はない。

問題はこの後だ。

これまでの日本の成長は、言ってみれば「初心者~中級者」へのそれだったように思う。基礎中の基礎も知らぬずぶの素人が、持ち前の勤勉さを発揮して指導者の教えを 瞬く間に吸収。結果、予定よりも遥かに短期間で先達の教えを実践可能となった――と、イメージで語るならそういう状態だ。

仮にフットボール強豪国になるために、1から10までのステップがあるとすれば、1~5までの初期段階を猛スピードで駆け抜け、6,7レベルに到達。

誰も予想し得なかったタイミングで、9,10の最高位にある国々の背中を捉えることができた――

それが日本の現状ではないだろうか。

さながらそれは、ダイエットの正しい知識を持たなかった御仁が、インストラクターの指導の元に当たり前の栄養摂取と運動・休養を取った末に得られる結果のようだ。

ウェイトアップもウェイトゲインも、科学的に立証できる、当たり前のことを当たり前に行わなければ、必要な労力は2倍にも3倍にもなってしまう。だが、一度仕組みを知ってしまえば、後はコントロールするだけでいい。新聞の折り込みチラシにある、劇的ビフォーアフターはそうして作られるものである。

閑話休題。

とかく我々日本人は、与えられた技術や知識を、広範囲のコミュニティで一定レベルまで浸透させることについては、世界でも指折りの高い適性を持っていると思う。

言い換えればそれは、
『常識を作り出す速度』
とも表せるかもしれない。

グローバル化の影響を著しく受けているとは言え、他の国ではこれほど迅速に、海外の常識が単一国家のそれに同一化する事態は考えられない。

日本には確かに、古来の伝統を重んじる気風がある。一方で、こと科学的分野の知識・技術体系については、驚くほどこの国の気質は柔軟性に富んでいるのだ。

――ただしそれは、そういった知識が「語られる」世界においての話ではあるが。

育成者の不足。

ここ数年、サッカーファンの間で少しずつ、だが確実に広まりつつある共通認識である。現代表のサムライたちが活躍すればするほど、後進の不振に危機感を抱き、土壌 の質を問題視する声が高まるのは必然だ。

代表ファンにも、国内チームのサポーターにとっても、サッカーに関わるすべての者にとっての憂慮事項である。

何故、これだけ急速に選手たちのレベルが上昇する中、育成者のレベルが上がらないのか。

その原因究明なくして、この先のレベルへ到達はできまい。

◯育成者の人材が不足する理由

この問題を考えるに当たっては、いくつかの事実を整理しておく必要がある。

・この20年は、それ以前と比べて飛躍的にサッカー全体への注目が高まったこと。
・これにより、特に若年層の競技者が旧来に比べて増加したこと。
・同時に、若年層のプレイヤーの質が、著しく底上げされたこと。

まずはこの3点である。

若年層のプレイヤー数自体は、Jリーグ……つまりプロリーグが発足する以前から、一定数を確保できていたように思う。高校サッカーと天皇杯という、2つの金字塔に支 えられていた影響で、最終目標に値する舞台が存在したためだ。

この点は非常に幸運なことだった。

とは言えそのJリーグも、当初の質については、お世辞にも褒められたものではなかった。 実際に来日し、かつてJリーグでプレーした外国人選手の多くが、当時のクオリティについては決して高いものではなかったと口にしている。

それでも、競技者数が増えれば全体のレベルは間違いなく底上げされる。Jリーグの開幕は、興行的な世間の注目度だけでなく、この点でも大きな転機だったのだ。

クラブはトップチームによる各ディヴィジョンでの戦いとは別に、地域の育成機関としての顔を持つ。ユース、Jrユースの下部組織を保持・運営することで、一定のレベル を確保した若年層の受け皿としても機能する訳だ。

これは相対的に、地域の小クラブや中・高等学校の部活動にも影響を及ぼした。

質の高い若年選手が、じょじょにクラブの下部組織の門を叩くようになったことで、自分たちの存在価値を高める必要性に駆られたためだ。

結果として、特にサッカー人口の多い土地・地域は、レベル毎にコミュニティが形成されていくことになる。この点、デットマール・クラマーに端を発する、ドイツとの交流から多くの影響を受けている日本が、間接的ながらレベル層型のコミュニティを発展させている。実に興味深い事象と思う。

だが、ここでひとつの問題が生ずる。

プレーする者と観戦する者、あるいは学び、知ろうとする者。これらが決してイコールではないという問題だ。

確かに、プレー人口は増えた。

レベル差毎のプレーコミュニティも、自然発生しつつある。 だが、こと場の提供という点では需要を満たすことが叶ったとしても、指導レベルの供給を保証することには繋がらないということだ。

指導者を取り巻く環境の変化に対して、指導者が成長する過程の変化が、あまりにも小さいがためである。

○現場の惨状

コミックマーケットの出展後、この一ヶ月ばかりで、縁あって若年層の試合を観戦する機会に多く恵まれた。特にアンダー12、いわゆる小学生以下の子どもたちの試合を 、多く目にすることができた。

名だたるクラブのjrユースの試合も多少は観戦できたが、最も多く観てきたのは、地域の少年チームのそれだ。

玉石混交とでも言うべきか……中には今後を想像すると、おおいに楽しみな想像を掻き立てられるような子もいれば、ボールを利き足で捉えて蹴ることすら覚束無いながら、全身から喜びを発散させるような子もいた。

それは、実に微笑ましい光景だった。

毎試合、両手が痛くなるまで拍手を繰り返し、彼らのプレーに喝采を贈ったものである。

――しかし、よいことばかりではなかった。

子どもたちはいい。

一方で、そこで見たコーチ陣の実態は、些か以上に衝撃的なものだった。

「馬鹿野郎! お前のせいで失点したじゃないか! 何をしてる、ちゃんと守れ!!」

「何をミスってる!?千載一遇のチャンスだったんだぞ!?」

――すべてこれ、実際に現場で筆者が耳にしたコーチの声である。

無論、コーチ達の全員が全員、こんな人物という訳ではない。

多くは起こってしまったことを忘れ、子どもたちを励まし、今すべきこと――次のプレーへの集中を促す者が大多数ではある。

それでも、極一部と言うには、あまりにも多くの罵声を耳にしてきたのも確かなのだ。

人は、ミスからしか本質的に学ぶことはできない。

未経験故にミスが生まれる。失敗の原因を究明し、解決することで人は学ぶ。 あらゆる教育の原点となる思想だ。

――否。事は人だけにあらず。

猫もそうだ。犬もそうだ。鳥類や昆虫族も、同じ轍を踏むまいと工夫を凝らしながら生きている。

これはもはやあらゆる生物に共通する、生物の普遍事項と言っていい。

だが、悲しいかな。

この道理を理解できない、あるいは知っていても感情に押し流れてしまう者がいるようだ。

首都近く、豊富な人口と経済的にも恵まれた地域であるにも関わらず、関東中央の複数の試合会場で、この種の罵声を耳にしてきた。

その度、グラウンドに降りて、コーチを殴り飛ばしたい衝動に駆られたものだった。

これは何も、大昔のスポ根時代の話ではない。

子どもの痛みを理解しない、自分の憤懣を子どもにぶつける指導者は、現在でも少なからず存在するのである。

懸命にプレーした末に手に入れた、当然の権利である実戦の中の「失敗」という経験を、不当に糾弾された子どものその後は哀れだ。

ほぼ例外なく、その後のプレーから覇気や躍動感が失われる。縮こまり、リスクを回避し、まるで指導者の顔色を窺うかのようなプレーばかりが目立つようになる。

――吐き気を催しかけた。

子どもたちが、ボールに向かう意思なく、自ら怠慢なプレーをしていたとすれば理解ができる。それは逆に、叱責が必要な場面だ。(尤も、そういった精神的状況にある プレイヤーをそもそもピッチに立たせてしまった場合は、そのこと自体の責がまた、コーチ自身にも問われるものだが)

しかし、少なくとも自分が目にしてきたこれらの場面において、子どもたちは決して手を抜いてプレーしていたようには見えなかった。

一人の例外もなく懸命にボールを追い、味方を助けようと奮戦する子ばかりであったように見える。プロのそれ以上に、子どもの懸命さは鮮明だ。手前の目が完全なる節穴でもない限り、ことこの点については見間違えようはずはない。

そんな彼らに、何の権利と意義を持って罵声を浴びせかけるというのか。 そこには、一点の正当性もない。

自身の痛みを堪えられず、体の成りがでかいだけの子どもが、ピッチ上の教え子たちにストレスをぶつけている構図以外のなにものでもない。

責任感を育てる?

勝利への執着心を育てる?

馬鹿も休み休み言えというものだ。

罵倒と叱咤激励を同列に語るな、と言いたい。それを耳にした子どもの表情を見れば、内質は一目瞭然だろう。

叱咤とは、相手の頬を打ちながら、自分の頬を打たせる「痛みの共有」だ。その上で、協力して逆境への反発を狙うことに意味がある。

ここで言う罵倒とは、正当性なく相手を罵ることだ。悪意を持って、相手の尊厳を侮辱・軽蔑する行為である。

この年代の子どもの多くは、既に己の責任を知っている。

ミスがチームにとって、どういう意味を成すかも理解している。

だから皆、下を向いてしまうのではないだろうか。そこで顔を上げさせるのが、指導者の最たる使命のひとつであるはずだ。

技術的な問題、組織的な問題は二の次である。

取り分け10歳にも満たないような子どもたちから、ボールを蹴る喜びを奪い、挑戦する意思を剥奪する声掛けに、何の必要性があるというのか?

これを『害悪』以外の何と言うのだ。

ライターの端くれとして筆を取って以来、最も強烈な確信を持って言える。

 

その(2)へ続く


筆者名:白面

プロフィール:だいたいモウリーニョ時代からのインテリスタだが、三冠獲得後の暗黒時代も、それはそれで満喫中だったりします。長友佑都@INTERの同人誌、『長友志』シリーズの作者で す。チームの戦術よりも、クラブの戦略を注視。

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