欧州の頂点を決めるEURO、南北アメリカ大陸の頂点を決めるコパ・アメリカも決勝を残すだけとなった。

どちらも非常に盛り上がっておりメディアに携わるものとして喜ばしい限りだが、一方で心配なこともある。最近サッカー人気の低下についてたびたび聞かれることである。

ヨーロッパで物議を醸す欧州スーパーリーグ構想は、元を辿ればそこが原点だった。

元スペイン代表のピケは「部屋に閉じこもって、サッカーの試合だけを見て90分を過ごす。それはもう不可能なことなんだ」と話しており、数年前から新しい形でのサッカーを模索している。

先日にはブラジル史上最高のストライカーとの呼び声も高い怪物ロナウドが「いま私はフットボールを1試合通して見ることができない。あまりに退屈だからだ。テニスなら5時間は見続けていられるよ」とぶっちゃけ、大きな反響を呼んだ。

フェノーメノと呼ばれたブラジルのロナウド

ロナウドに関してはテニス関係者との対談だった点を割り引く必要はある。何より、古い世代の人間が現代のものを受け入れられないのはいつの時代もそうだった。

ただ、筆者も長くサッカーに携わっていて感じる部分がないわけではない。一番はデータへの高度な依存だ。

メジャー含めプロ野球界は顕著かもしれない。近年はトラッキングシステムの導入によってあらゆるものが分析され、投手の球速や回転数、打者の打球速度がすぐに表示されるようになった。

かつて選手たちは目の前で対峙する相手をどう攻略するかに躍起になっていた。しかし現代では自分が出せる能力をあげることーーこれを最近は“出力”と表現しているが、その出力をあげるために日々トレーニングし、その数字を競い合っているようにも映る。

サッカーは野球より実際に人と人とのぶつかり合いがある。ただそれでも全てが組織化され、選手たちは監督が提唱する高度な戦術を忠実に実行するために、自らの最高速度であったり走行距離を高められるようなトレーニングを繰り返している。

フランスの英雄ミシェル・プラティニは最近のインタビューで「以前のフットボールは選手たちのものだったが、今は監督たちのものとなっている。選手は監督が望んでいるプレーを実行しているに過ぎない」と嘆いた。

1980年代最高のフットボーラーの一人だったプラティニ

近年、日本代表の選手やJリーグの選手を取材していて、「自分にベクトルを向けて」「自分に矢印を向けて」という言葉をよく耳にする。

相手と戦う前に自分との戦いであるということなのだろう。それ自体はすばらしいことなのだが、もしかするとここにヒントが隠されているようにも思った。

より多くの大衆は、誰がどのようなデータを叩き出すことより目の前の相手をどう倒すか。それに必死になっている姿に心打たれるのではないだろうか、と。

鹿島アントラーズに所属する鈴木優磨は、シント=トロイデンから復帰して以来何かと批判されている。同時につねに注目の的となっており、彼に惹かれるものは多い。それはやはり、彼が目の前の相手に全身全霊でぶつかっているからであろう。

選手がアスリート化されたと言われて久しい。肉体的にも技術的にも、過去に比べて全体のレベルが上がっているのは間違いない。

一方で駆け引きの奥深さや欲望を剥き出しにした情熱など、戦いとしての魅力はもしかすると薄れたのかもしれない。レベルが上がり、全てが最適化された結果として“衰退”の危機を迎えているのだとしたらあまりにも皮肉な話である。

スポーツのビジネス化がすすみ、グローバルに広がったことでおそらくは全体の視聴者も増えているはずである。ただ同時に他の娯楽も台頭しており、もともと一番人気だったサッカーが相対的に下がっているとみることもできる。

「より多くの人がサッカーを観るようになったが、その魅力はどんどん失われている。サッカーを世界一のスポーツにした部分はもう好まれていない。サッカーは5分間のアクションではなくそれ以上の存在。文化的表現であり、アイデンティティとしての一つの形態なのだ」と先日、警鐘を鳴らしたウルグアイ代表マルセロ・ビエルサ監督の言葉が重く響く。

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いまわれわれサッカー関係者ができることはなんなのか。これからも模索していきたい。

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