出身国:ブラジル

日本代表:82試合7得点(2002-2006)

“黄金世代”でサッカー人気が爆発した頃の日本代表で活躍した左サイドのスペシャリスト。

1994年に高知の明徳義塾高校に入学し、卒業後に清水エスパルスへ。1999年には清水の2ndステージ制覇と年間勝点1位の立役者となり、史上最年少の22歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞した。

2001年11月に日本への帰化申請が認められ、フィリップ・トルシエ監督の日本代表でデビュー。2002年日韓ワールドカップに出場したが、ラウンド16のトルコ戦では前半で交代させられる屈辱も味わった。

その後、祖国の英雄であるジーコ監督の時代には、ポジションを下げて左サイドバックとして2006年大会にも連続出場している。なお、ブラジル時代はもともとDFであったという。

帰化前の登録名は『アレックス』。ちなみに三都主という当て字は自身にとって思い出深い『ブラジル・高知・清水』の三つの都市を意味しているという。

ネルソン吉村

出身国:ブラジル

日本代表:45試合7得点(1970-1976)

ブラジルに生まれた日系2世で、日本がブラジルサッカーに傾倒するキッカケとなったといわれる伝説的なプレーヤー。

もともとヤンマーのブラジル支社に勤務していたが、1967年に異動する形で日本のヤンマーサッカー部へ。レジェンド釜本邦茂とのコンビでヤンマーを強豪へと引き上げた。

日本サッカーリーグ初の外国籍選手であり、彼の活躍によって他のサッカークラブは次々とブラジル流を取り入れていった。

1970年12月に日本国籍を取得。登録名は「吉村大志郎」で、1976年まで45試合7得点を記録した。2003年に56歳で亡くなっている。

呂比須ワグナー

画像3: (C)Getty Images
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出身国:ブラジル

日本代表:20試合5得点(1997-1999)

中山雅史が決めた日本代表の『ワールドカップ初ゴール』をアシストしたことで知られるストライカー。

1987年に18歳で日産自動車(横浜F・マリノスの前身)に加入。日本リーグ、Jリーグで得点を量産し、1997年に日本国籍を取得して日本代表入り。

当て字の『呂比須』は「ロピスではないか」と言われるが、Lopesのブラジルでの発音はロピスに近い。

アジア最終予選で3得点をマークするなど日本のワールドカップ初出場の原動力となり、1998年本大会でもグループステージ3試合に出場した。

2002年限りで引退し指導者に。2012年にはガンバ大阪のヘッドコーチ、2017年にはアルビレックス新潟の監督を務めている。

現在55歳。2024年はインドネシア1部のPSSスレマンで指揮をとっていた。

李忠成

画像4: (C)Getty Images
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出身国:日本(韓国籍)

日本代表:11試合2得点(2011-2012)

日本はブラジルからの帰化が圧倒的だが、李忠成は在日韓国人であることを公表しながら帰化した唯一の選手だろうか。

デビューしたFC東京では燻っていたが、柏レイソルで石﨑信弘監督との出会いが転機に。ピッチ内外での振る舞いを見つめ直した結果、Jリーグを代表する選手となった。

日本生まれながら韓国人として育ち、韓国の年代別の代表にも呼ばれている。しかし代表に参加した際に「お前は純粋な韓国人じゃない」と言われ、アイデンティティに悩んだ彼は日本への帰化を決意した。

2007年に帰化が承認され、北京五輪に臨むU-23代表としてデビュー。2011年アジアカップ決勝のオーストラリア戦では途中出場から左足ジャンピングボレーを叩き込み、4度目となるアジア制覇の主役となった。

李忠成の韓国読みはイ・チュンソン。なお、「名前があることがメッセージになる」と実名のまま帰化している。

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