かつてピッチャーとして日本プロ野球とMLBで活躍した上原浩治氏。
ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団すると、ルーキーイヤーにいきなり20勝する大活躍を見せ、その後は、ボストン・レッドソックスでワールドシリーズの胴上げ投手にもなった。日米通算100勝100セーブ100ホールド達成という偉業も成し遂げている。
その上原氏は、自ら「雑草魂」と語っており、エリートではなく、異色の経歴の持ち主。
中学校では野球部がなかったために陸上部で活動し、高校時代は外野手兼控えピッチャー、一浪して入学した大学で一躍スターになった。
その上原氏がテレビ朝日の『浜田雅功とアスリート幸福論』に出演し、これまでのキャリアなど様々な話題について語った。
東海大学付属仰星高校時代は、2年で外野のレギュラー、3年で控えピッチャーを兼務することになったとか。
同級生でのちにプロになる当時のエースピッチャー、建山義紀氏によれば、上原氏は外野手だったが、肩とコントロールがよかったので、毎晩先輩にバッティングピッチャーをさせられていたそう。
ただ、上原氏は当初ピッチャーをやるのが嫌だったと明かしていた。
「1年生の時からピッチャー行けと言われてました。僕は嫌です!と断っていたんで、ずっと。
(ピッチャー陣が走り込みで)外野を走っているのを見て、やりたくなかったんですよ(笑)
ピッチャーだけがずっと外野を走ってるじゃないですか、高校生って。あれを見てたので、ピッチャーやりたくないなと。
高校2年で新チームになった時に外野のレギュラーを獲れ、3年生になるじゃないですか。
新しい1年が来るじゃないですか、いいやつが入ってくるんですよね。弾かれましたね、僕(笑)
弾かれて、これだったらピッチャーやったほうがまだ試合に出られる可能性あるなと思ったので。
