Qoly読者の皆さん、こんにちは。こちらでの更新がすっかり遅くなってしまいまして、申し訳ございません。
さて、まだ暑い日が続きますが、いよいよ天皇杯の季節がやってきました。シードされたJ1・J2の40チームとJFL1チームに続き、8月25日に全47都道府県の代表が出揃い、8月31日と9月1日の1回戦から頂点を目指す戦いが始まりました。Jリーグクラブは柏レイソルが9月4日、それ以外は9月7日から11日までの2回戦で登場し、リーグと並行して2014年1月1日に向け全87試合が行われます。
今回はこの天皇杯について、いくつかのトピックを紹介します。
◎冬が来る前に・今回の出場チームの傾向と問題
では初めに、改めて今回の出場チームについて分類します。
J1・J2として初めから本大会出場が決まっている全40のJクラブチームと、JFL第17節(前半戦終了)時点の首位としてシード権を取ったカマタマーレ讃岐を含む48チームは<表1>のように分類されます。この48チームは1回戦突破、そして2回戦でJクラブ打倒のテイク・ア・チャンスを目指します。
なお、<表1>では比較のため、過去3大会の出場チームも分類しました。第91回大会までは夏の総理大臣杯優勝チームに大学シードが与えられていたので、これも含めています。
第90-93回の天皇杯出場チーム内訳
注:第92回の「山梨学院オリオンズ」と第93回の「山梨学院大学ペガサス」は同大学サッカー部のサブチームだが、登録は山梨県社会人リーグのため、県リーグ所属の社会人チームとして計算。
J2加盟チームの増加でJFL・社会人チームのシードが徐々に削られていますが、社会人と大学、それに高校生・ユース年代の2種チームの出場数は、最近は安定しています。一時は2種チームの数が1-2まで減っていましたが、今大会では4年連続で鳥取県から出場の米子北高校をはじめ、JFLチームのない県での出場が増えています。また、米子北高校のように4大会以上連続で出場するのは14チーム、最長は前身のTDK SCから12大会連続となったブラウブリッツ秋田です。また、前回は減った初出場チームも今回は例年並みの8チームに回復しました。
今回の特徴としては、記者会見で日本サッカー協会の大仁邦彌会長も触れたように、J3参加希望チームの奮闘があります。2014年の発足初年度から参加を希望して申請を受理された19チームのうち、前回は8チームだった天皇杯本大会出場は今回13チームへ増加しました。JSL時代からの名門アマチュアクラブとして3大会ぶり36回目の天皇杯出場を狙ったHonda FCを静岡県予選の決勝で破った藤枝MYFCの初出場は、今回の都道府県予選で最も象徴的な出来事です。
この都道府県予選から本大会の1回戦・2回戦にかけて、毎回その日程調整が問題になっています。第90回では1回戦の2日後に2回戦が組まれ、都道府県代表が消耗した状態でJリーグクラブと対戦する不利が生まれましたが、今回は先週末に44都道府県の代表を一気に決めて足並みを揃えた上、その1週間後に1回戦、さらに概ね1週間後に2回戦が組まれ(柏レイソルのACL参加に伴い、アルテリーヴォ和歌山-藤枝MYFCの勝者のみは中2日で対戦)、この点では選手にやりやすい日程となりました。
ただ、まだ改善すべき点は残っています。カマタマーレ讃岐がJFLシードを決めた後、香川県予選では高松商業高校が優勝して初の本大会出場を決めました。この両チームが8月31日、14時00分から高松市の香川県営サッカー・ラグビー場で対戦しましたが、同じ日の11時30分にプリンスリーグ四国の第11節として高松商業高校と徳島ヴォルティスユースの対戦が既に決まっていました。予想しづらい出来事が重なった結果とはいえ、高松商は同じ日に2つ、まずはBグラウンドで2位からのプリンス逆転優勝のため落とせない試合を戦った後、メイングラウンドに移動して、JFL首位のままで来年からのJ2参入を目指すカマタマーレと激突しました。結果は徳島ユース戦が1-3、讃岐戦は2点リードからの大逆転で2-7と連敗。特にプリンス四国では首位の愛媛FCユースと勝ち点差が8となり、自力優勝が消滅する痛い敗北となりました。
これ以外にも、2種チームの大会参加は大きな壁に当たっています。今回の都道府県予選には全国で4689チームが参加しましたが、そのうち46% の2162チームを占める2種チームの参加状況は、以下<図1>のように都道府県によって大きく変わります。
<図1>2種チーム参加数で分類した都道府県数
各都道府県での2種平均参加数は46.0チーム、この前後になる県もありますが、両極端に分かれる場合も目立ちます。2種チームの参加が0なのは秋田・富山・石川・愛知・大阪・山口の6府県、これに1チームの栃木、2チームの埼玉、3チームの新潟・福井、4チームの青森・長野・島根と、地域も都市度もバラバラの県が続きます。栃木と埼玉はJクラブのユースのみが参加するので、合計8府県には高校のサッカー部が社会人・大学チームと公式戦で戦う可能性はありません。逆に、205の神奈川を筆頭に、168の兵庫、163の千葉、137の福岡、115の北海道では、高校の大会が天皇杯予選につながり、参加チームが増えています。
どの大会を天皇杯予選、つまり各県の選手権大会にするかの判断は各都道府県サッカー協会に任されています。地域の実情に合った判断でしょうが、それでもゼロの大阪と参加数2位の兵庫で極端に状況が違うとも思えません。天皇杯を「真にオープンな大会」にし、かつ種別を超えた交流による人材発掘やユース世代の育成を考えるなら、ここは改善してもらいたい部分です。
◎モンスター・カマモト
今回の天皇杯に当たって、日本サッカー協会は過去の大会結果を再調査し、その一部を「メディアキット」として配布しました。ここでは現在のJリーグクラブの記録が過去のアマチュア時代からまとめられ、日本サッカー史を語るための貴重な記録ですが、同時に釜本邦茂の強烈さを示してくれます。
特に圧巻なのは大会全体の通算成績です。釜本は1963年度の第43回大会から1983年度の第63回大会まで、早稲田大学で13試合、ヤンマーで46試合に出場しました。この59試合が、大会全体での最多出場記録となります。
そして決めたゴールは全部で60!第51回大会まではJSLと大学選手権の上位、全部で8チームしか参加できず(第44回大会のみは10チームによるグループリーグ制)、1972年度の第52回大会から地域代表を含めたオープン化が実現してもJSLの強豪だったヤンマーは1回戦シードで4試合しか戦わない年が多かった事を考えれば、現在の方式ならどれだけ増えでしょうか。実際、釜本は早稲田の2年生だった第44回で5試合8得点、ヤンマー入社後の第47回と第50回では3試合7得点という記録を残し、少なくとも6大会で得点王だった事が判明しています。第54回までは未確定の部分がありますが、釜本以外に3大会以上で得点王になった選手はいませんし、逆に釜本の記録があと2つ増える可能性も指摘されています。
以下、この「メディアキット」の数字から、釜本の記録に注目して抜き出したのが<表2>です。
<表2>天皇杯本大会での釜本の各種記録と順位
注:「T」は「タイ」。
数々の記録を持っている釜本ですが、優勝回数ではトップではありません。釜本がいたヤンマーは8回の決勝戦のうち三菱重工・日立製作所・古河電工などに計5回敗れていますが、二宮洋一と津田幸男は8回中7回優勝しました。
1917年生まれの同級生だった二人は二宮がFW、津田がGKで、「神戸一中」として有名だった旧制第一神戸中学(現在の兵庫県立神戸高校)で全国制覇をした後、慶應義塾大学のソッカー部で黄金時代を作ります。当時は全国最高峰のリーグだった関東大学リーグで4連覇し、1937年度の第17回ではソッカー部として全日本選手権初優勝となりました。続く第18回でライバルの早稲田大学に敗れたのが、決勝戦での唯一の敗北です。また、社会人チームがほぼなかった当時は各大学が現役とOBの混成チームで全日本選手権に出るのが一般的で、二人も1936年度(第16回)と1939年度(第19回)では現役、卒業後の1940年度(第20回)ではOBとして慶應BRBで全日本選手権に優勝しました。
ただ、これを最後に全日本選手権は中止され、後の「サムライブルー」こと日本代表にも選ばれていた二人のキャリアは中断しますが、戦後に現役復帰して1951年に日本が参加した第2回アジア大会のメンバーに選ばれます。そして同年度の第31回大会に慶應BRBとして11年ぶりに優勝し、この大会から授与された天皇杯を最初に獲得しました。次の第32回の全慶應、第34回の慶應BRBと合わせての7回優勝が、大会記録となっています。
もう一つ目立つのは木村和司と水沼貴史のコンビです。最後の優勝は1992年度、Jリーグ開幕を控えた第72回のトリコロールかもめ、「日産自動車横浜マリノス」で飾りましたが、そのキャリアの大半はJSL時代の日産自動車です。1983年度の第63回からの10年間で二人は7回決勝に進み6回優勝、同期間中で3回優勝の読売クラブを抑え「日産黄金時代」を作りました。水沼の回想として、銀座のホテルで年を越し、普段の選手寮では出ないステーキを食べるのが楽しみだったという話が伝わっています。そして日産自動車が初優勝を飾った第63回大会の決勝、1984年1月1日の国立が、ヤンマーの監督を兼任していた釜本邦茂の公式戦現役最終試合となりました。
この他に、三菱重工の中心選手で得点王も取り、日本代表では釜本と一緒に戦った落合(旧姓・山田)弘や、ヤンマーで釜本の同僚だったブラジルからの日系人帰化選手、吉村大志郎(ネルソン)がこの表に入ってきます。そして監督としての決勝戦出場記録は、当時のヤンマーを率い、後にJリーグチェアマンになった鬼武健二が7回でトップです。いかに当時の釜本が絶大の影響力を持っていたか、ここからも分かります。
このように偉大なOBばかり目立つ歴代記録の中、唯一現役組が迫っているのが出場試合数です。4位の伊東輝悦は清水エスパルスに入団した1993年の第73回で天皇杯に初出場し(Jリーグデビューは1994年)、ここから清水で51試合、2011年に移籍したヴァンフォーレ甲府で2試合に出場しました。前回大会では出ませんでしたが、もし甲府が決勝まで進み、そこまでの全試合に伊東が出場すると、59試合で釜本と並びます。これ以外でベストテンにランクインした現役選手は、浦和レッズ一筋の山田暢久が52試合で6位、伊東や山田ともチームメイトになりながら栃木SCに移籍した三都主アレサンドロが49試合で8位です。この2人には、次の第94回で釜本を抜く可能性が残っています。
これと比べると、得点ランキングでは大差が付いています。一番は三浦知良ですが、それでも17点。その後に平山相太13点、本山雅志と佐藤寿人が12点ですから、釜本は遥か彼方です。ただ、カズはあと2点取れば二宮や木村、そして戸塚哲也と並んで8位タイに入れますし、試合に出た瞬間にSC鳥取ドリームスの清水裕之が持っている最年長出場記録を更新し、初の46歳プレーヤーとなります。天皇杯2回戦ではこれについて大きく取り上げて欲しいというのが、日本サッカー協会からマスメディアに向けてのお願いでした(笑)。
◎宿無しへの鉄爪・転機はチャンスに?
では、次は未来の話をしましょう。
以前にQolyのコラム「Bid for 2020 -五輪候補3都市のサッカー会場比較」で東京オリンピック招致に触れましたが、そのメインスタジアム使用も見越して、国立競技場は全面改修に入る事が決まりました。工事は2014年7月に始まり、2019年3月にはまるでUFOのような新スタジアムが完成します。結果、現在の国立での決勝戦開催はこの第93回が最後となります(日本サッカー協会は「SAYONARA国立」キャンペーンに協力し、特製ピンバッジも作りました)。
ですので、来年度の第94回から第98回大会までは国立が使えず、準決勝1試合と決勝の場所探しが必要になります。現在は各都道府県協会からの申請を受け付け、いくつかから希望があったものの、最終発表はまだ先というのが公式会見での発表です。ただし観客収容数3万人以上などの条件がありますし、震災復興支援でU-20女子W杯の日本戦開催もあった青葉城の街・仙台(宮城スタジアム)も気候面での不利が生まれます。あとは過去の開催実績などから絞られてくるのではないでしょうか。
もう一つの問題は、第94回大会では「元日決勝」が崩れる事です。ブラジルW杯の後、2015年1月9日から31日までオーストラリアで行われるアジア杯に向け、日本代表の休息・準備期間を取りたいという希望があり、この大会の決勝戦は2014年12月13日の開催が内定しています。これで第48回決勝、1969年1月1日に釜本のゴールでヤンマーが初優勝をしてから45年間続いた「元日国立決勝」の伝統が途切れる事になりました。サッカーファン以外の人にも元日の午後の番組として定着していたコンテンツの喪失は、それが一時的であっても痛手になるでしょう。今まで以上に日本サッカー協会や各都道府県協会の努力が求められます。
ただ、もちろんこれはチャンスでもあります。人口以上に現在のJ1クラブ分布は関東への集中が進み、決勝が関東勢対それ以外の対戦(例:第91回のFC東京-京都サンガ)になると「中立地」とは名ばかりになりますが、国立から離れて積極的に試合を誘致した地方のスタジアムで開催されるならば、決勝戦の雰囲気は大きく変わるでしょう。もちろん、Jリーグの成功と定着の原因は「地域密着」と「全国拡大」ですから、天皇杯の「巡業」はプラスに変わる可能性も高いでしょう。
もう一つ、第94回の決勝戦が「天覧試合」になる可能性もあります。サッカーに天皇杯が授与されたのは1947年に昭和天皇が東西対抗戦を観戦したのがきっかけで、1999年12月23日の天皇誕生日、第79回準決勝の国立開催、名古屋グランパスエイト-柏レイソル戦で今上天皇と美智子皇后による天覧試合が52年ぶりに実現しましたが、「天皇杯決勝」の観戦はまだありません。多くの宮中行事が行われる元日に時間を割くのは非常に難しかったでしょうが、12月13日となれば状況は変わります。特に、2015年度の第95回からは再び元日決勝へ戻す意向をサッカー協会は持っていますので、何としてもこの機会は逃したくない所。果たして初の決勝天覧試合が行われるのか、この点も注目したいと思っています。
2020年に東京でオリンピックが開催されるか、それともイスタンブールに飛んでいくかは分かりませんが(もちろんマドリードがフィーバーする可能性もあります)、2011年は天皇杯が第100回大会になり、翌2012年は日本サッカー協会の創立100周年です。協会は50周年と75周年の時に記念の『協会史』を出版しているので(『75年史は大型本430頁の豪華さです』、今回の天皇杯記録の再調査も『100周年史』に向けての準備と考えられます。昔の試合記録は不備が多く、第92回までの全2452試合中60試合では先発メンバーが不明、9023ゴール中573ゴールは得点者不明という事ですが、8年後にどこまで足跡をたどったデータが発表されるかも、個人的には楽しみです。
◎今回のクイズ・プレイバック
最後にまたクイズを。今回は絞りきれずに2つにしました。
今回のコラムの題名や小見出し、それに文中に何かを見つけた読者のあなたは、間違いなくアラフォー以上確定です(笑)。「現在・過去・未来」は、渡辺真知子のデビュー曲「迷い道」の歌い出しです。この曲は1977年11月1日に発売されると80万枚のヒットとなり、渡辺は1978年の紅白歌合戦にこの曲で初出場すると共に、2作目の「かもめが翔んだ日」で日本レコード大賞の最優秀新人賞を取りました。そこで、今回のコラムではこの1978年のヒット曲の題名にちなんだ語句を混ぜてみました(「ザ・ベストテン」がTBSで始まったのも1978年1月です)。
さて、この「迷い道」が発売された後の1978年1月1日は、第57回天皇杯の決勝でした。この時、釜本のいたヤンマーは決勝で敗れていますが、その相手チームにいたブラジル人選手は誰でしょう。この人は今も日本に住んでいるので、Qoly読者の皆さんならお名前を知っているはずです。
もう一問は、ストレートに天皇杯の歴代公式記録から。
<表2>、本大会の通算得点数では、25得点で2位タイとして水沼と柱谷と「他1名」と書きましたが、これが誰かを考えて下さい。これもブラジル人選手です。そしてある大会で10得点を取り、8得点が最多の釜本すら抜いて(他に小城得達が9得点で釜本より上)、史上最多の1大会ゴール数のはずです。
筆者名: 駒場野/中西 正紀
プロフィール: サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。
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