夏合宿は「地獄」。誰も鬼には逆らえない
これは私の高校時代からの友人から聞いた話です。私が通っていた高校のバレー部には、鬼と呼ばれる監督がいました。
怒鳴るわけではありません。ミスをすると、何も言わずにこちらを見る。その3秒ほどの沈黙が、どんな罵声よりも怖かったといいます。
なかでも部員が震え上がったのが、毎年8月の夏合宿でした。山あいの宿舎に4泊し、朝6時から夜9時まで、ひたすらレシーブとダッシュを繰り返します。3日目には階段の上り下りで太ももが笑い出しました。それでも監督の前で弱音を吐いた部員はいなかったそうです。
合宿中は、笑顔も禁止。廊下で監督とすれ違うときは、全員が壁際に寄って声をそろえて挨拶する。今思えば異様な光景ですが、当時は当然の光景でした。
山あいの宿舎で、鬼が悲鳴を上げた夜
合宿3日目の夜のミーティング。畳敷きの大部屋に部員が正座で並び、監督がその日の反省を読み上げていました。窓は網戸だけ。山の宿舎らしく、蛍光灯のまわりを小さな虫が飛び回っています。
そのとき、天井から手のひらほどの大きな蛾が落ちてきて、監督の肩にぴたりと止まりました。
次の瞬間、聞いたことのない高い悲鳴が部屋に響きます。監督は椅子ごと後ろへ転げ落ち、四つん這いのまま壁際まで後ずさると、部屋の隅で小さくなって震えていました。「取って。誰か早く取って」
2年生の1人が新聞紙で蛾を外へ逃がすまで、監督はその姿勢のまま動きません。誰も笑いませんでした。正確には、全員が下を向いて、必死に笑いをこらえていたのです。
翌朝の練習は、いつもどおり厳しいものでした。ただ、監督が黙ってこちらを見ても、以前ほどの恐怖はなかったそうです。「あの人にも、怖いものがあるんだ」そう思えただけで、選手と監督のあいだにあった見えない壁は、確かに低くなりました。
その夏を境に、部員から監督へ質問が飛ぶようになります。「ここ、どう入ればいいですか」と聞ける空気が生まれ、練習の意図が伝わる分、チームの動きも噛み合っていきました。
厳しさだけでは届かなかったものが、たった1匹の蛾で届いてしまう。おかしな話ですが、あの夜がバレー部のいちばんの転機だったと思っています。
【体験者:30代・女性、回答時期:2020年7月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
Qolyコラムニスト:タニグチ
小学1年から水泳、小学4年からは野球に打ち込み、大学卒業までの実に十数年をグラウンドで過ごしてきた30代。高校では主将としてチームをまとめ、大学では神宮の舞台にも立った。引退後は中学硬式(シニア)で指導者としてもキャリアを重ね、「する側」「観る側」「教える側」のすべての視点からスポーツと向き合ってきた。
プレイヤー・キャプテン・指導者という異なる立場を経験する中で、勝ち負けの記録には残らない人間関係や、試合の裏側で起こる思わぬドラマに強く惹かれるように。チームメイトや教え子、友人・知人から聞いたスポーツにまつわるリアルなエピソードを中心に取材し、感動や驚き、時にはちょっとした仕返し劇まで、スポーツの現場で生まれる人間ドラマをコラムとして執筆している。

