見学を断った日曜日
これは私の職場の上司から聞いた話です。上司の娘、高校2年生のAさんは、剣道部の練習試合に父が来るのを嫌がっていました。父は試合が終わるたび、帰りの車で「あそこで一歩出れば」とダメだしするからです。経験者だから言いたくなるのでしょうが、疲れているAさんはうんざりでした。
次の日曜日は近隣校との合同練習で、午後には希望する保護者も参加できる交流稽古があります。案内を渡すと、父は早速予定を確かめました。Aさんは「午前中は来ないで。今日は自分で考えたい」と伝えます。上司は寂しかったそうですが、その場では了承したそうです。
午後だけなら構わないと思った
午前の練習試合では、Aさんは思うように技を出せませんでした。それでも仲間と振り返り、次は先に動こうと決めます。昼休みに父から「午後の稽古には行くよ」と連絡が届きました。
選手として参加するなら、客席から自分ばかり見ているわけではありません。Aさんは「どうぞ」と返しました。
午後は学校を交ぜて組を作り、順番に相手を替えながら稽古します。父を見掛けないまま何人かと打ち合い、次の列へ移ったときでした。向かい側に立つ人の垂れに、見慣れた名字が見えたのです。
面の向こうから聞こえた声
同じ名字の人もいるはずだと、Aさんはもう一度見ました。すると相手が「お願いします」と声を出します。父でした。たまたま二人が向かい合ったのです。
「見られたくない」と言った日に、最も近い距離から見られることになりました。礼をしたあと、Aさんは午前の反省を思い出します。父の動きを待たず、自分から打ち込みました。
続けて来る技には下がってしまいましたが、次は足を止めずに応じます。父との稽古は、家での口論よりずっと忙しく、余計なことを考える暇もありませんでした。
帰りの車で先に話したのは
面を外すと、父は「さっきの一歩、よかった」とだけ言いました。いつもの長い解説を身構えていたAさんは、拍子抜けします。
「後ろに下がったときは?」と自分から聞くと、父は「どう感じた?」と返しました。帰りの車では、今度は娘が先に話します。
「お父さんも最後、息上がってたよね」。父は笑い、「だから帰ったら休ませて」と答えました。その後も父は大会へ来ますが、帰りに剣道の話をするかはAさんに任せています。娘も合同稽古の案内だけは、父へ渡すようになりました。次は同じ列に並ばないでよ、と釘を刺されたそうです。
【体験者:50代・男性、回答時期:2026年9月】
※本記事は、執筆ライターが取材又は体験した実話です。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。


