競馬一家に生まれ、将来を嘱望されながらも、不慮の落馬事故などもあり、31歳の若さで引退した元JRA騎手和田翼氏。そんな彼はいま、セカンドキャリアでは競馬界から離れ、元騎手のキャリア支援も兼ねた事業を立ち上げた。
選択肢が極めて少ない騎手のセカンドキャリア
元騎手のセカンドキャリアといえば、代表的なものでいえば「評論家」となる。
スポーツ紙や専門番組でコメンテーターをつとめ、レースの予想や現役時代のエピソードをそれぞれのチャネルで発信する。代表的な存在でいえば、岡部幸雄、安藤勝己、田原成貴、藤田伸二、佐藤哲三、安田康彦、細江純子などが挙げられる。
このうち、細江氏を除けば、みなG1優勝経験がある。細江氏に関しても、JRA初の女性騎手など、独自性のポジションを確立し、配偶者も競馬関係者である。
つまり、いずれも“恵まれた地位”にあるわけだが、当然ながらそうではない元騎手も存在する。同じように評論家活動も可能だが、現役時代の実績で劣るため、当然ながら信頼性は低い。卓越した話術があるわけでもないので、競馬法などで厳しく制限される関係者の“代弁者”となることも困難だ。上記に挙げたメンバーの中には不祥事を起こしたものもいるが、知名度もあって“サードキャリア”が用意された一面もある。
入学時の4月1日時点で15歳以上20歳未満の者しか競馬学校に入学できないため、騎手の最終学歴はよくて「高卒」であり、負担重量といった体重制限もあるため、大半は「中卒」だ。成績が振るわず引退を決断するとしても、書ける経歴は限られ、身体的優位性が活きるとも言い難い。
つまり選択肢が極めて少ないのだ。一方で親族一同が、何かしらの役回りで従事しているため、必然的な再就職先となる。実際に、オジュウチョウサンなどの主戦でも知られる石神深一氏が2026年4月に引退し、調教助手に転向するなど、トップジョッキーも選択している。
叔父の和田竜二師のように、騎手から調教師になるのも“テッパン”。他にも同じ年に転向した藤岡佑介師や、競馬学校同期の福永祐一師も同様の選択をしている。元から志向しているならば、決して悪手ではない。
きっかけとなった引退競争馬紹介
翼氏でいえば、競馬一家であるため、再就職は“容易”であった。しかしその選択を取らなかったのはなぜか。
「ある会社から、『引退した地方競馬の“推し”を教えてくれ』という話が来たんです。それを書いた内容をファン向けにSNSで発信したんですけど、ちょうどそのタイミングで会った人に、『それええやん』ってなって」
ふとしたきっかけで関わるようになった引退競走馬の紹介だが、実は竜二師も、自身のYouTubeチャンネル「和田竜二の引退競走馬を追う‼︎」で、ライフワークにしている。テイエムオペラオーの最大のライバルであるメイショウドトウ号と再会する回では、再生回数が167万回を記録するなどの大きな話題となっている。
そうした中で翼氏は、先述の会った人物とともに株式会社AILE Entertainmentを立ち上げた。事業内容は「セカンドキャリア支援」だが、対象は「引退競走馬」に加えて「引退騎手」となる。
「別に競馬界に残りたかったらそれでええんです。でもそれが果たして、『あなた残りたいんですか?』と思ってのものなのか。他に選択肢が分からへん、考えられへんからじゃないのか。絶対残りたかったのかって言われたら、そうじゃないこともあると思うんですよ」
翼氏がそう述べるのには背景がある。実はJRAでは、引退騎手に関する補助がほとんどないという。ほぼ100%近くがトレセン(トレーニングセンター)に残り、例外も知名度を生かしたものだ。
そもそも競走馬に関しても、「功労馬繋養支援事業」が2025年にスタートするほど、引退後の支援が、世界と比べて大きく遅れているのが日本。かつてはG1を勝利した元一流馬でも、用途変更により廃用に追い込まれたりと、悲惨な末路を辿ったケースが多くあった。生産牧場の基盤ともいえる繁殖牝馬でも、一定年齢に達すると“扱い”が変わることもある。
「そういった馬たちは、動物用の餌になります。人間じゃ食用に不向きですからね。騎手だって、何してもいいんです。僕みたいに外の世界出てみたり、飲食をやってみたり」
「外の人」だからできること
レースでいえば、あえて大外枠を選んで勝負しようとしている翼氏。傍から見ると恩恵を得られないのではと見られがちだが、それが活きたこともある。
そのひとつがSNS発信だ。翼氏は元騎手の視線を生かしつつ、“中”だと躊躇うようなものでも、競馬界のためになるならば積極的に取り上げる。代表的なものが、3月に起きた北海道の牧場による仔馬への暴行動画に対する見解だ。
厩舎内で言うことを聞かない仔馬に対し、殴る蹴るなどで従わせる内容に対してSNS上では大炎上。それに対し、元JRA騎手として、そしてひとりの馬好きとして、以下の文章を投稿した。
元JRA騎手として、今回拡散されている仔馬の動画を見て本当にショックを受けました。詳しい事情や、その場で何があったのかは分かりません。でも、どんな理由があったとしても、あのような扱いはあってはいけないと思います。馬を扱う仕事に関わる以上、まず理解しないといけないのは人間の側です。言うことを聞かない。思い通りにならない。腹が立つ。そういう瞬間があるのも、この世界にいる人なら誰でも分かると思います。でも、恐怖や力で理解させようとしても、馬が分かるわけがない。もしそれで分かるなら、みんなそうしているはずです。いろんな意見が出ているのも見ましたが、僕はただただ驚きと悲しさを感じました。僕は何を言われても構いません。ただ、こんな扱いをされる馬が一頭もいない世界であってほしいと心から思います。(原文ママ)

投稿は2万を超えるいいねが寄せられ、多くのメディアにも取り上げられた。しかしこれは、「外の人」だからこそできたという。
「まず誰が見たって『アカン』と思うやつです。でも『お前らも競馬やってるやんけ』っていうのもあるし、牧場との関係もあります。ジョッキーや調教師がそんなことを言うと、乗せてもらえなくなったり、馬を預けてもらえなくなる可能性があります。 ゼロとは言えないんですね。僕も現役やったら発信してないですよね」
様々な競馬関係者とコラボ
他にも故郷栗東に関する情報だったり、騎手時代と絡ませた人気俳優の役作りのための減量に対して反応したりと、自身の経歴を生かした独自の発信を行っている翼氏。
「独自性」といえば、竜二師とテイエムオペラオーとの“コラボ”や、2024年にダノンデサイルで日本ダービーを勝利した安田翔伍調教師と、YouTubeチャンネル「エルハウジング」でのコラボ配信など、競馬関係者との人脈を生かしたものもある。今後もそこは活かしていきたいといいつつ、“身内”である竜二師以外との共演には慎重な姿勢も見せる。
「まず自分でやっていって『コンテンツ』を作っていきたいですよね。急に“大きい方”に来ていただくと、『(コネ)使ったんや』って思われてそれが嫌で。安田さんの時も、本人たっての希望で出ていただいたというのもあるんですが、『メシハロン』ってコーナーを作って、まず僕がやってからの流れでした」
あくまで謙虚に語る翼氏。傍から見ると、こうした人柄がまず前提にあるから、サークルから離れても手を差し伸べる人がすぐに出てくるのだろう。
コンテンツ作りといえば、AILE Entertainmentでは、竜二師のマネジメントもつとめ、5月からはオンラインサロン「和田流」を開設。さらに石川県金沢市で開かれた水口優也元騎手のトークイベントに駆け付けたり、常石勝義元騎手の案内で、故郷栗東市にある就労支援施設「びわこみみの里」に訪問し、ふるさと納税返礼品を見学したりと、“大外”から新たな競馬サークルを作り出そうとしている。

特に栗東に関しては、自身が生まれ育った地ということもあり、事業として注力していきたいという。
引退しても「人馬一体」
競馬一家に生まれ、馬好きもあって騎手を志し、落馬事故で生死をさまよい、「馬好きだからできるわけではない」と引退を決断し、敢えて離れた位置から「新時代の扉」を開こうとしている和田翼。彼にとって「競馬」とは何なのだろうか。
「そうですね。難しいな…僕にとって競馬は生まれた時から身近にあったし、自分の人生の中で絶対なければなかったこと。なんつったらいいかな。自分の人生の一ページですかね」
現在の競馬界は、ゲーム「ウマ娘プリティーダービー」の商業的成功で、かつてないほどの注目が集まるようになっている。それはコンテンツとしての成功だけでなく、版元であるサイゲームスを運営するサイバーエージェント代表の藤田晋氏が所有する「フォーエバーヤング」が、ブリーダーズカップ・クラシック(アメリカ)、サウジカップ(サウジアラビア)、東京大賞典などを勝利し、2025年のJRA年度代表馬に選ばれ、総獲得賞金は50億円に迫るなど、レースシーンでも数々の歴史を塗り替えている。
一方で、ここまで翼氏が挙げたように、人馬ともに十分なケアがなされていないのが日本競馬界だ。特に引退騎手に関しては、「どうせサークルに残るだろう」という先入観で皆無といっていい。調教師にしても70歳定年制が敷かれる中、今年引退した国枝栄元調教師が厩務員に転向し話題になるなど、“サードキャリア”の整備もまだまだ不完全だ。
「騎手をやってきた中で、やってたからこそ、競馬のことは『ギャンブル』だとは思ってなかったし、勝負の世界、スポーツだと思っていました。見ていただいてる時に、そういう目線だけじゃなくて、一人の騎手、一頭の馬を応援してほしい。その中に普段の調教だったり、馬を生産して競走馬になってデビューして走れるまでのストーリーとか、もっともっとたくさんの人に知ってほしい。
そういう大きな業界が『競馬』だと思うんですけど、正直日本っていう一つの国の中で競馬を知ってる人って、そんなにめちゃくちゃ多いわけでもないです。いろんな人に、競馬騎手をやってたと言っても、『それ何の仕事?』なんかもよくあったし。
だからもっともっと競馬のことをたくさんの人に知ってほしいですね。競馬って、やっぱ馬がいないとダメじゃないですか。馬の状況もそうですけど、競馬のために生まれてきた馬たちは、ずっと死ぬまでレース走ってるわけじゃなく、いつかは引退が来るわけで。引退した馬たちはどうなるかをもっと知るべきです」
取材・執筆:向山純平



