お正月の風物詩のひとつ「箱根駅伝」。その時代を彩る大学生ランナーたちが、襷をつないでいく人間ドラマ模様が、スポーツを超えた娯楽として、多くの支持を集めている。
スポットライトを浴びる箱根ランナーたちだが、卒業後の進路を知る機会は意外に少ない。引き続き競技活動を続ける者、引退し新たな人生の歩みを進める者など様々だ。
マツダ陸上部に所属する臼井健太さん(以下、臼井さん)は、國學院大學1年から箱根駅伝を走り、現在も競技生活を続けている。
夢は「甲子園球児」が感じたズレ
鳥取県出身の臼井さんは現在27歳。2021年に入社し、今年が6シーズン目となる。元々は2歳年上の兄の影響で、「夢は甲子園出場」という野球少年。とはいえ、走ること自体も好きだったそうだ。
「中学校時代は野球は地元のクラブチームに入っていたんですが、学校は学校で部活に入らないといけなくて。『野球にも活かせるかな』という考えから陸上部に入りました。小学4年ごろからランニングチームで駅伝は走っていまして、他の人より少し速かったので、そうした『見てもらえている』経験が、好きになった原点ですかね」
今でも地元の広島東洋カープを応援するなど野球好きではあるものの、競技として「陸上」を選んだのはなぜだったのか。
「野球って『チームスポーツ』なので、自分が活躍してもチームが負けたり、逆に全然ダメでも勝つこともあって。悔しいと思ってもチームは喜んでる、『やった!』と喜んでもチームは悔しい、とかですね。そういった“ズレ”に、少し歯がゆさを感じていました。一方で、陸上だと自分が頑張れば頑張るほど結果がついてきて。自己ベストを更新できたり、この前まで負けてた選手に勝てるようになったりで、『努力』が結果に結びつきやすいってところで、だんだん面白くなってきました。『もっともっと速くなりたい!』で、中学校二年生から陸上に絞ったって感じですね」
各世代の「最高峰」を経験
高校は地元の鳥取城北高校に進学し、2年次と3年次に、「都大路」こと全国高等学校駅伝競走大会に出場している。大学は國學院大學に進学し、1年次と4年次に箱根駅伝に出場。そして卒業後は地元に近いマツダ陸上部に入部。ニューイヤー駅伝には、入社1年目の2022年と2026年の2度出場。今年はアンカーをつとめた。今シーズンに関しては、地元広島で開催される全国都道府県対抗駅伝にも今年初めて出場し、同じくアンカーを担当した。
高校から一貫して、最高峰の大会に出場し続け、國學院大學時代には3年次に出雲駅伝優勝を経験するなど、頂点も味わっている(本人は出場せず)。
傍から見ると「エリート」に分類される存在。実際に鳥取城北、國學院、マツダともにスカウト推薦されて入学・入部している。
「大学なら、強い選手は一年生の時からどんどん声をかけられて囲われていきます。私は三年生の春で“遅い方”でしたね。國學院でも入学してからはチームではそんなに速い方ではなく、学年の中でも中盤ぐらいの実力でした」
そう振り返る臼井さんだが、実際のところは、1年次で全日本大学駅伝と箱根駅伝両方に出場。全日本では区間9位となり、上々のデビュー戦を飾っている。
「やっぱり負けるのが悔しいというか。勝てると嬉しいっていう、本当に純粋な気持ちが一年目は大きくて。 走れば走るほど結果もついてきた部分もあり、箱根にも走れることになりました。ただ正直その時は、『嬉しい』っていう気持ちよりは『大丈夫かな』っていう不安の方が大きくて、気持ちの面で出る準備ができていませんでした。走れたのは走れたんですけど、結果は19番でチームに迷惑かけるような感じになってしまったんです」

1年次に出場した箱根駅伝では「山下り」6区を担当し区間19位のほろ苦デビュー(本人提供)
2年3年次は全日本に一度出場したのみでやや低迷。4年次は再び全日本と箱根に出場。それぞれ区間6位、7位と好走している。

2021年の箱根駅伝で大手町で撮影した写真。前日に3区を走り、アンカーの給水係としてゴールを待つ。右は鳥取城北の同級生で中央大学に進学した大森太楽選手(現中国電力陸上部所属)(本人提供)
「強豪」と呼ばれるのは自分たち次第
國學院大學時代、臼井さんの1学年上には浦野雄平、土方英和、青木祐人というランナーがいた。
彼らはトラック種目では日本人トップ、駅伝シーズンでは出雲や箱根で区間賞を取るなど活躍した。これにより全日本では初の、箱根では7年ぶりのシード権と初の一桁順位を獲得。最終学年では箱根駅伝で総合3位、そして出雲駅伝で初優勝を飾る原動力となり、國學院大學は大きな飛躍を遂げた。
卒業後はそれぞれ富士通(浦野)、ホンダ(土方※)、トヨタ自動車(青木)と、トップクラスに位置づけられる実業団に入部するなど、当時の学生陸上界の最高峰のランナーがいる中での学生生活だった。
※土方はその後、旭化成陸上部に移籍
当時三大駅伝に出場するのがやっとだった國學院にとって、3名の存在は強烈。臼井さんにとっても大きな存在だった。なおやり取りが多かったのは主将をつとめていた土方だそうだ。
「強くなっていくチームを見れたっていうのは、すごくいい経験をさせてもらったなと思います。 土方さん、浦野さん、青木さんは自分自身にすごく厳しい方で、周りが『これぐらいでいいでしょ』なところでも、絶対に妥協せず、きつい練習の後も、次の日に誰よりも長く走っていました。自分自身に課しているものが大きかったですね。試合になると、自分たちの予想をいつも超えてくる感じもそうですし、それがずっと続いてたからこそ、ブレイクスルーしたというか、延長線上の結果じゃなかったのかなと思います」
キャラクターは三者三様で、土方は主将もあってまとめ役、浦野はストイックで自分も含めて厳しい、青木はやわらかくて緩衝材的存在だったそうだ。彼らが中心となって一躍脚光を浴びた國學院大學だが、「強豪」と呼ばれるためには、継続も重要になってくる。彼らが卒業し、臼井さんが最高学年になった2020年はそれに直面した。
「危機感しかなかったですね。私たちの代は層が薄かったんですが、だからこそここで自分たちが頑張れば下の代もついてきてくれるし、國學院としてさらに上のステージに上がれるだろう。逆にここでシードを逃してしまったりすると、また低迷してしまうなという危機感でした。
(2020年の)箱根が終わった後、新4年生だけでミーティングをして、その危機感と自分たちの役割って何だろうという話し合いもしました。上の人たちみたいに、どんどんどんどん前に世代トップを狙っていくっていうことは、現実的ではない。けど、絶対にシードだけは守らないと。それは自分たちの役割で、そこで前年並みの結果が出せれば、(個が)強くなくても(駅伝で)勝負できるんだという話を何回かしましたね」
結果として全日本大学駅伝・箱根駅伝それぞれで9位。全日本は惜しくもシードを逃したものの、箱根はシード権を確保した。

最終学年で再び出場した箱根駅伝は3区を担当。区間7位にまとめ“リベンジ”。(本人提供)
その後臼井さんと入れ替わるように平林清澄が入部し、2024年には出雲と全日本で優勝し二冠を達成。さらに青木瑠郁や上原琉翔らを擁した2025年では、出雲を連覇し、箱根は過去最高の2位となった。残す頂点は箱根路を残すだけの強豪校となっている。
ところで大学駅伝は、出雲・全日本・箱根を総称して『三大駅伝』と呼ばれている。鳥取県出身の臼井さんにとっては、“近所”ともいえる出雲が“一番燃える”のだろうか。
「箱根駅伝が別格ですね。出雲は地元が近いっていうところと、3年生の時に初優勝したんですが、私自身怪我でメンバーに絡めず、当日も現地にすら行っていませんでした。4年生になり私自身も強くなって、ディフェンディングチャンピオンとして、優勝争いが狙えるようなチームで走れるかなっていう、すごい楽しみな気持ちがあったんですけど、残念ながらコロナで中止になってしまいました。箱根は開催していただいて、本当にありがたかったですね」
出雲駅伝は、前年の箱根駅伝で10位以内に入った大学に出場資格が与えられる。当時の國學院大學は「強豪」へと変貌を遂げる時期で、浦野・土方・青木が3年次の2019年の箱根で7年ぶりのシードを獲得し、翌2020年が3位。つまり臼井さんにとって、“凱旋”できる機会は2回しかなかったが、絶好の機会だった2020年は、未曾有のパンデミックが阻むという不運だった。
名将・前田康弘
個人競技である陸上だが、襷を繋ぐ駅伝は団体競技であり、チームを束ねる監督も重要だ。現在もっとも著名な存在は青山学院大学の原晋監督だが、臼井さんを指導した前田康弘監督もまたそのひとり。2009年の就任以降、國學院大學を箱根常連、そして屈指の強豪校にまで育て上げている。
「前田さんは厳しいんですけど、すごい愛のある指導者。時に自分よりも自分のことを考えてるなって思うことも多くありました。自分はどういう選手になるべきなのか、みたいなことを熱く語ってくれるんです。『お前は浦野・土方の背中を追って、それをまた下の代に伝えていく立場だ』とか。
私は3年生の時に右膝を故障して、手術したことがあるんです。 手術は成功したんですけど、全然走れるようにならなくて。寮で生活するのも苦しくなって、実家の鳥取に帰らせてもらったことがありました。その後もなかなか気持ちが戻らず、今戻っても力になれないんじゃないかということがあったんですけど、その時も前田さんに、『箱根を諦めていいのか? お前はそれでいいのか?』って。なんですかね、『走れよ』『走ってほしい』でもなくて、自分自身に問いかけてくるような。そういったところで奮起させてもらってた。そんな人だったなと思います」
強豪校になっていく萌芽を在学中に体験し、流れを途絶えないよう、次世代へのバトンを繋いだ臼井さん。ともすれば「谷間の世代」と揶揄されがちで、実際、臼井さん世代が4年時に、土方の後を次いで主将の任に就いたのは、当時3年だった木付琳だ。
しかしこの世代の奮闘があったからこそ、いまの國學院大學があるともいえる。最終学年時が未曾有のパンデミックに苛まれ、「前回王者」というこの上ない肩書きで臨めるはずだった地元凱旋も果たせず、それでも1年次以上の出場並びに結果を残し、出口が見えないままでの卒業というのは、心境も難しいものもあっただろう。
駅伝ランナーの「年越し」事情
「都大路」こと全国高等学校駅伝や、富士山女子駅伝、全国都道府県対抗駅伝なども含め、年末年始は著名な駅伝が多く開催される。前後には国際的なマラソンも開催されるため、ファンにとっては毎週末が楽しみな時期だ。
選手目線では、コンディション調整に細心の注意を払わなければならない。万一そこで失敗してしまうと、箱根駅伝で有力校が失速する際に“やり玉”に挙げられてしまう。さらに男子選手だと、新年早々ピークに持っていかなければならない。
「実際変な気持ちではありますよ。紅白(歌合戦)とかすごい緊張しながら見るんです。『明日かー』と思いながら。これがあるってことは、数時間後には走ってるっていうことですからね。年末のお祭り感は、僕にとっては緊張感です」
「年越し」はどうだろうか。
「いやいやもう。大体9時台ぐらいには寝てますね。走らない年も1区のスケジュールと合わせて生活して、登録選手が走れなくなった時に走れるような手順にするんで、1日は(午前)3時台ぐらいに起きるんですよ。で、朝練習するんですけど、『あ~、年が変わったな』って思いながら、まだ真っ暗で。初日の出とか、参拝しに行く人たちとすれ違いながら走ってますね」
現在チームでは副キャプテンをつとめ、先のニューイヤー駅伝ではルーキー以来の出場でアンカーをつとめた臼井さん。主力メンバーといえる立場になったが、マツダ陸上部員として欠かせないのが、競技活動に加えて「社業」となる。
(続く)
取材・執筆:向山純平

