サッカー元オランダ代表であるジェラルド・ファンネンブルグ氏。
プロデビュークラブのアヤックス・アムステルダムやPSVアイントホーフェンなどで活躍し、1988年にはPSVで国内リーグ、国内カップ、欧州チャンピオンズカップの三冠を達成し、同年オフに開催した欧州選手権(ユーロ88)では、オランダ代表の一員として優勝を果たした。
さらに同年から2年連続でオランダ年間最優秀選手賞を受賞するなど、ルート・フリット、フランク・ライカールト、ロナルド・クーマン、マルコ・ファン・バステンらとともに、一時代を彩った名手だ。
さらに同氏は、キャリア絶頂となる29歳のタイミングで日本行きを決断。ジュビロ磐田で3年間プレーし、後の黄金時代の礎となった。
今回Qolyでは、現役時代のエピソードや、ヨハン・クライフら名将から受けた影響、世界的ビッグクラブのオファーがありながら日本行きを選んだ理由などを聞いた。
17歳でアヤックスの一員に、そして8番へのこだわり
――ジェラルド、本日は貴重な機会をありがとうございます。まずは簡単な自己紹介と、現在の活動について教えてください。
「17歳の時にアヤックスのトップチームでデビューして、そこから6年間プレーしました。その後6年間はPSVに在籍しています。現役を退いてからはPSVのユース監督としてコーチのキャリアをスタートさせ、(現役時代の)古巣アヤックスや1860ミュンヘン(ドイツ)で、ユース世代のコーチも務めました。実は指導者ライセンスを持たずにキャリアをスタートさせるという、ちょっと珍しい経緯を辿っています」
――背番号について伺います。ジュビロ磐田では10番、優勝を果たしたEURO1988では7番を着けられていましたが、もともと好きな番号は8番だったとか。
「アヤックスでプレーを始めた時からずっと8番を着けていました。PSVでも同じく8番です。代表では時によって10番や7番を着けることもありましたが、ユーロの時はほとんど7番でしたね。8番は“お気に入り”というより、いつも自然と着けていた番号という感覚です」
――プレースタイルについて伺います。日本ではジュビロ磐田でプレーされましたが、一般的には「中盤の攻撃的なプレイヤー」という印象を持たれています。実際にはどういったポジション、どういったプレーを得意とされていたのか、振り返っていただけますか。
「14歳の時に初めてアヤックスに行って、そこはいつも4-3-3のスタイルでプレーするクラブでした。それが私のサッカーの原点になっています。両サイドに優れたドリブラーのウインガーを置いて、攻撃的にポジションチェンジを繰り返す――バルセロナのスタイルにも通じる部分がありますね。今振り返ると、レベルアップのために毎日ストリートでボールを蹴っていたことが大きかったと思います。今はクラブがすべての育成環境を担っていますが、私たちの頃は一日中ストリートでドリブルやシュートの練習をしていた。そこが今との大きな違いです」
ーーアヤックスやJリーグ公式などの動画で、あなたの印象的なシュートシーンが定期的に紹介されていますが、実際に得意なプレーだったのでしょうか。
「それで私を覚えてくれているのは嬉しいです。でもどちらかというと、その前のラストパスが得意でしたね」
アヤックスとPSV、「特別な1年」だった1988年
――オランダではアヤックス、PSV、フェイエノールトが「三大名門」として位置づけられます。ジェラルドさんの場合、アヤックスでユースからデビューし、その後PSVに移られています。当時の心境も含めて、この2つのビッグクラブでのキャリアを振り返っていただけますか。
「アヤックスでの記憶はもちろん特別です。若手だった当時、トップチームでプレーしたいという思いを強く持っていて、それが実現した瞬間は一生忘れられません。アヤックスとPSV、この2つのクラブでプレーできたことは名誉でしたね。エールディビジでは3、4回ずつリーグ優勝を経験しています(PSVでは5度経験)。アヤックスではヨハン・クライフとプレーしたのも特別な記憶ですね。PSVでは(ルート・)フリットと一緒にプレーできましたし、(ロナルド・)クーマンとは同じタイミングでアヤックスから移籍しました。何度もタイトルを獲った記憶は、一生忘れることのないものです」

PSV時代は欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)も制覇した(本人提供)
――中でも1988年は、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)とエールディビジ優勝、そしてオランダ代表としてユーロ88制覇と、まさにキャリアのハイライトと言える1年だったのではないでしょうか。
「間違いなく特別な年でした。国内リーグで優勝し、カップも獲って、チャンピオンズカップも獲って、そしてユーロ88も優勝した。しかもその年、24歳でオランダの年間ベストプレーヤーにも選ばれたんです。あの若さで、あれ以上勝てないというところまで辿り着いた。信じられない1年でした。あれほどの経験は、自分のキャリアの中でも最も記憶に残るものだと思います」

ユーロ88制覇を果たした1988年は忘れられない1年(本人提供)
――当時のチームメイトについて、特に印象に残っている選手を教えてください。
「1人に絞るのは難しいね(笑)。それぞれのポジションで、みんなが本当に高いクオリティを持っていました。(ロナルド・)クーマンはディフェンダーとして仕事をしっかりこなす選手でしたし、(フランク・)ライカールトは信じられないほどのミッドフィールダーであり守備者でもあった。(ルート・)フリットは強さとスピード、そして強烈な個性を兼ね備えていましたし、(マルコ・)ファン・バステンは説明するまでもない選手です。みんな名前を聞けば誰もが知っている。彼らと一緒にプレーできたことは、本当に光栄なことでした」

PSVとオランダ代表で共闘したルート・フリットと(本人提供)
ミケルス、クライフ、ヒディンク、ロブソン――名将たちから受け継いだ哲学
――後ほどお聞きする指導者としてのキャリアにも関わってくる部分だと思いますが、現役時代に影響を受けた指導者について教えてください。リヌス・ミケルス氏、ヨハン・クライフ氏、フース・ヒディンク氏、ボビー・ロブソン氏など、現役時代のあなたは、「名将」と呼ばれる人物の下でプレーされてきました。
「本当に多くのトップクラスの指導者に恵まれました。誰か1人からというより、それぞれの指導者から少しずつ学んで、自分なりの哲学を作り上げてきたという感覚です。クライフは選手の自由を尊重しながらも、チームをまとめる力に長けていました。ヒディンクもまた、選手に自由を与えるタイプの指導者でした。そしてボビー・ロブソンは、彼らとはまったく違うスタイル、まったく違うサッカー観を持った指導者で、それも大きな学びになりました。誰か1人からというより、それぞれの指導者から少しずつ学んで、自分なりの哲学を作り上げてきたという感覚です。一つのスタイルに固執するのではなく、いろいろな指導者から少しずつ吸収していく――それが結果的に自分自身の考え方を持つことにもつながったと思っています」
――クライフ氏について伺いたいのですが、ジェラルドさんにとっては、選手時代にチームメイトとしても、そして指導者としても関わったという、なかなか珍しい間柄でした。ご自身にとって、ヨハン・クライフという人物は、「選手」「指導者」、どちらがより強く残っていますか。
「うーん、どちらがより強い印象かというのは、正直言えないですね。選手としてのクライフは、世界最高のうちの1人でしたが、コーチとしても唯一無二の存在です。彼のフィロソフィーは、『常に自分たちのプレーをすること』でした。相手を見て戦うのではなく、自分たちのやり方を貫く。相手より優れていなければならない、という考え方です。コーチとしては、常に最高の選手を集めて、『誰が相手でも恐れることはない、我々が最高だから、自分たちのスタイルで攻撃的に戦うんだ』と言い続けていました。ほとんどの指導者は“負けないこと”を考えますが、彼はいつも“勝つこと”だけを考えていました。そこが彼の大きな特徴だったと思います」
――選手としても、指導者としても、強い印象を残した人物だったんですね。
「その通りです。選手としても、世界最高のプレーヤーの1人だったことは間違いありませんが、それに加えて指導者としても、自分たちのスタイルを貫いて、かつ相手がどう来るかをあまり計算しすぎない。そういう形で自分たちのスタイルを貫いて勝つというのも、彼のフィロソフィーそのものです。ですから、選手としても指導者としても、私にとってはどちらも特別な存在でした」
「ローマとは契約していた」実現しなかったイタリア移籍
――キャリアの話を続けます。イタリアのASローマへの移籍が決まりかけていたと伺っていますが、最終的にジュビロ磐田への移籍に至った経緯を教えていただけますか。
「実はローマとはすでに契約書にサインしていたんです。ただ、その後PSVが『出さない』と言ってきた。契約解除にはおよそ500万(ギルダー)の違約金がかかるはずでしたが、PSVは『気にしない、残ってくれ』と。そして65歳までの契約と、年金の支払いまでオファーしてきました。当時、妻もまだ若く、私は家族との時間を大切にする人間なので、その提案を受けてPSVに残る決断をしたんです。ただ、13~14年もオランダでプレーを続けてきた中で、“他の国でプレーしてみたい”という気持ちが芽生えました。
面白いのは、当時オランダユース代表チームコーチだったハンス・オフトが、それを新聞のインタビューで読んでいたことです。彼は非常に賢い人で、私が“他の国でもプレーしたい”と語っていたのを見て、電話をかけてきました。『日本に来て、ここを任せたい』と。それが全ての始まりでした」
――当時はまだヨーロッパの“一流クラブ”へ移籍するチャンスも十分にあったはずです。かつてチームメイトだった「オランダトリオ(ルート・フリット、フランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン)」はACミランに渡って活躍しましたし、ロナルド・クーマンもバルセロナでチャンピオンズカップ(欧州チャンピオンズカップ)を制しています。ご自身にもASローマ行きのチャンスがあった中で、それでも日本を選ばれたのはなぜでしょうか。29歳、キャリアの絶頂期での決断だったと思うのですが、それでも“人として成長したい”という思いの方が優先順位として高かったのでしょうか。
「間違いなく、それ(人としての成長)が一番の理由でした。実際ローマだけでなく、ナポリやユヴェントスとも話をしていましたし、欧州でプレーを続けるチャンスはいくらでもありました。ただ、17歳から第一線でプレーしてきて、長く現役を続けていると、選手としてだけでなく“人として”何か特別なものを求めたいという感情が湧いてくるんです。私はヨーロッパのことより、アジアのことをより強く考えていました。なぜかは分かりませんが、いつも“そこにいたい”という気持ちがあった。日本でプレーしたいと。それが当時、私にとって一番大切なことでした。
面白い話をすると、ローマと一度サインしたのに結局行かなかった後、代わりに獲得されたのがドイツ人のトーマス・ヘスラーでした。彼はバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)候補にも名前が挙がるような選手でした。もしかしたら、あの時ローマに行くのが正しいタイミングだったのかもしれません。でも人生には、その瞬間にやるべきことをやる時があります。私は日本でプレーすることを選んだ。オランダに残って優勝を重ねれば、サッカー選手としてこれ以上ないところまで行けたかもしれない。でも、もっとお金を稼げたかもしれないという以上に、大事なのは自分が100%信じられる場所で生きることだと思うんです。日本行きは、私の人生の中でも最も“経験”という意味で価値のある決断の一つでした」

オランダ代表でも活躍(本人提供)
――ちなみに、ハンス・オフト氏との信頼関係は、以前から築かれていたものだったのでしょうか。
「実は私が若手選手だった頃、彼はオランダユース代表のコーチを務めていて、私もその一員だったんです。そこから関係が始まって、お互いをよく知る仲になりました。それが、彼が日本行きを勧めてくれた大きな理由の一つですね。日本での日々は、私が日本サッカーが力をつけていく過程のひとりになれたという感覚があります。今も日本代表の試合を見ると、本当に嬉しい気持ちになります。あの黎明期に関わった一人として、何か特別なものを残せたのではないかと思っています」
(後編へ続く)
取材・執筆:向山純平
通訳:岡崎慶太
協力:Korkmaz (Harun) Kosedag

