前編ではオランダ時代のキャリアと、日本移籍という決断にいたるまでの背景を語ってくれたジェラルド・ファンネンブルグ氏。
後編では、1993年に加入したジュビロ磐田での日々、日本での暮らしぶり、そして現役引退後に歩んだ指導者としてのキャリアについて聞いた。2025年にはインドネシアU-23代表のヘッドコーチも務めた同氏はいま、「再び日本で仕事をしたい」という強い思いを語る。
信頼していたオフトの「ビジョン」
――ジェラルドさんが日本にやってきた1993年は、ジュビロ磐田はまだJFL所属でした。そこに加入を決めた理由を教えてください。
「ハンス・オフトが監督だったことです。彼とはよく話をしていましたし、彼が必ずチームを変えてくれると100%信じていました。実際、彼はチームをJリーグへと昇格させました。ジュビロを助けることに携われるというのが、私にとってチャンスであり、特別なこと。日本へ行く一番の理由だったんです。実際、うまくいったと思います。後にドゥンガも加わりましたし、アンドレ・パウスや、中山(雅史)、名波(浩)、藤田(俊哉)といった選手たちも良いチームを作っていく力になってくれました」

ジュビロ時代は「闘将」ドゥンガともプレー(本人提供)
――当時の外国人枠は3。ドゥンガ(元ブラジル代表主将)、スキラッチ(元イタリア代表WC90得点王)、そしてファネンブルグ(元オランダ代表)という“ビッグネーム”が並ぶ横で、若い日本人選手たちが力をつけていく過程があったと思います。あるシーズンでは、DF(リベロ)のポジションでプレーすることもありましたね。
「現役時代の私は、ミッドフィルダーとして常に周りの選手のことを考えながらプレーしていました。彼らを助け、成長させ、より良いプレーができるようにする――それは日本でも同じ意識でした。ある時、オフトが『センターバックとしてプレーできないか。ビルドアップできる選手が欲しいんだ』と聞いてきたんです。私は『分かった、試してみよう』と答えました。そこから彼は、一度も私を最終ラインから外しませんでした。『ここに置いておく方が、チームにとってプラスになる』と。年齢を重ねて怪我も増え、以前のようにドリブルで仕掛けるスピードもなくなってきていた時期でもあったので、後ろに下がるのは自分にとっても良いタイミングだったと思います」
Jリーグ黎明期のスターたちとの競演
――当時のJリーグで、ジュビロ以外で印象的だった日本人選手はいましたか。
「カズ(三浦知良)は日本を代表する大きな存在でした。特にヴェルディ川崎は、当時すでに完成されたチームで、良い選手を数多く抱えていました。」
ーーちなみに今日通訳をつとめているのはジェフサポーターです。
「ジェフユナイテッド市原はドイツ人選手が多く、リトバルスキーのような選手もいたね。当時のJリーグは、どのチームも本当に質の高い選手を抱えていて、対戦していて楽しかったですよ」
――ジーコやドゥンガ、レオナルド、スキラッチといった世界的名手と同じピッチに立てたことについては、どう感じていましたか。
「特別でしたね。ジーコと対戦したり、ジョルジーニョ、レオナルド、ブラジル人のラモスに、先ほどのカズ……本当にビッグネームが揃っていました。あの時期、日本サッカーの土台を作る一員になれたことは、今振り返っても誇らしい経験です。」
人々の温かさが、子育てにとってもすごく良かった
――日本で生活を始めた当初の印象を教えてください。
「本当に特別でした。世界がまったく違って見えたんです。人々はとても礼儀正しく、家族を大切にする人たちばかりでした。オランダにも独自の文化がありますが、日本の人たちが私にどう接してくれたか、その温かさは特別な感情を与えてくれました。彼らのおかげで、自分もその一員になれたような気持ちになれたんです。とても居心地が良かったですし、心から楽しんでいました」
ーーそれまでに日本を訪れたことは?
「ありませんでした。ヨーロッパはどちらかと言うと物事がアグレッシブに進むことが多いのですが、日本の人たちはお互いにとても敬意を持って接している。それも、私がアジアに惹かれた大きな理由の一つです。子供を育てる環境としても、本当に良い場所でした」
――食事についてはいかがでしたか。例えばドラガン・ストイコビッチは、納豆や鮎好きで知られるほど日本食がお気に入りでした。
「食事は本当においしかったです。私の父はスリナム出身で、家では昔からスパイシーな料理を食べていたので、日本の料理にも共通するスパイスの感覚があって馴染みやすかった。中でも好きだったのは『ビーフカレー』ですね」
「家族のために」日本を離れる決断
――3年間のプレーの後、日本を離れる決断をされています。契約延長の可能性もあったと伺っていますが、どのような経緯だったのでしょうか。
「残る選択肢もありましたし、できるならもっと長くプレーしたいという思いもありました。ただ、あの時、両親が2人とも体調を崩していました。私にとって家族が一番大切です。両親が私を必要としている時に、離れているのはつらいこと。だから帰国を決断したんです。とても辛い決断でしたが、家族のことを考えれば、それが自分の下すべき決断でした」
――ジェラルドさんが去った翌年の1997年、ジュビロ磐田は初の年間チャンピオンに輝きました。当時若手だった藤田選手や名波選手らが躍動し、タイトル獲得を支えたことについては、どう感じていますか。
「とても嬉しかったですね。それも自分が関わった一部だと思っています。一緒にプレーしていた若手たち(名波、藤田、服部年宏、福西崇史、奥大介、田中誠、鈴木秀人など)に教え、学ばせ、彼らが中心となってチャンピオンになる――家族が最優先という考えは変わりませんが、彼らの成長を後から見届けられたことは、私にとっても特別な喜びでした」

後に黄金期を迎えるチームにおいて、当時若手だった主力たちの「模範」となった(本人提供)
ジュビロのために何かできるなら
――いまジュビロ磐田はJ2でプレーしています。かつて日本の頂点に立ったクラブの現状について、率直な思いを聞かせてください。
「正直信じられない気持ちです。昇格と降格を繰り返している状況を見ると、安定したチームであるためのフィロソフィーが必要だと思います。(J1)6位や7位ならまだしも、それ以上下に落ちることがあってはならないはずです。ジュビロは、私が日本というものを好きになった一番の理由の一つでもあるクラブなので、苦しんでいる姿を見るのは正直つらいですね。常にトップクラスであるべきチームだと思っています」
――もし機会があれば、再びジュビロに関わりたいという思いはありますか。
「もちろんです。ジュビロのために何かできるなら、ぜひやりたい。クラブの一員になれるなら、それに勝る喜びはありません。ジュビロは特別なクラブです。」
ーー“ジュビロ以外”でお話があった場合はいかがでしょう。
「いま私にとって重要なのは、オランダでやっていることを、日本でも行えることです。今でもアヤックスではコーチとして、あるいは選手をサポートする立場として関わり続けています。日本に戻って同じことができたら、それは自分にとって“サイクルが一周する”ような感覚になると思います」
――かつてのチームメイトとは、今でも交流はありますか?
「今でも多くの選手たちと関係が続いています。今でも連絡を取り合っている選手も何人かはいますが、もし日本に行けば、一緒にプレーした選手たちには絶対にまた会えると確信しています。良い関係を築いてきましたからね。」
現役引退、そして指導者へ
――現役時代の話に戻ります。日本を離れた後は、ユトレヒトやカンヌ(フランス)、1860ミュンヘン(ドイツ)と、家族の近くでプレーを続けられました。
「正直サッカーをやめようかとも考えていました。年齢的にも十分だと思っていましたから。でも周りの人たちが“うちのクラブに来てくれ”と声をかけてくれて、結局あと数年プレーを続けることにしたんです。両親や家族のそばにいたかったので、飛行機で1時間ほどの距離にあるクラブを選びました。1860ミュンヘンは、環境も良く、居心地の良い場所でした。何より、そこでトーマス・ヘスラーと再びチームメイトになれたことが印象に残っています。彼とはその後、指導者としても協力し合う関係が続きました。プロフェッショナルとしても、人としても、本当にトップクラスの人物です」
――2000年、36歳で現役を退かれています。
「一番の理由は年齢です。年を取れば、決断しなければならない瞬間が必ず来ます。それは寂しいことでもありますが、人生において自然な流れだと思っています。以前と同じようには体が動かなくなっていましたから」
――引退後はPSVのユース監督として指導者のキャリアをスタートされました。2000年から2008年にかけては、PSVや1860ミュンヘンなどでも断続的に指導に携わっていますね。
「最初はユース年代を指導していて、当時トップチームの監督だったフース・ヒディンクからは『1年でトップチームのアシスタントコーチに引き上げる』と言われていました。ただ、サッカーの世界は、自分自身で道を選ばなければいけません。」
――そこから2020年にアヤックスのユースコーチとして復帰されるまでの12年間は、クラブの指導現場からは離れられています。この空白期間には何があったのでしょうか。
「娘がテニス選手として活動していて、そのサポートのために世界中を旅していたんです。数年間、娘のために時間を使うと決めました。17歳からプロとしてやってきて、家族にもずっと支えてもらってきたので、現役を終えた後は少し家族のための時間を作りたいという思いもありましたね。ただ、サッカーの世界から完全に離れていたわけではありません。ルイス・ファンハールやフース・ヒディンクとは常に連絡を取り合っていましたし、AZアルクマールでファンハールのそばにいたこともあります。彼らから相談を受ける立場でもありました。クラブから声をかけてもらうことも多く、オファーもいくつかありましたが、あえてそれを選ばなかった。“クラブに所属していない”というだけで、サッカーの世界には常に関わり続けていました。」
ーー指導者のキャリアとして見ると、若い世代に長く関わられています。
「ヨーロッパのクラブで監督をするというのは、自分自身だけでなく家族にも大きなプレッシャーがかかることなんです。オランダでは、例えばアヤックスの新監督が2試合負ければ、すぐに“監督交代”の声が上がる。それが家にまで直接届いてしまう。私はそれがあまり好きではありませんでした。だからこそ、監督としてヨーロッパに戻ることを選ばなかったんだと思います」
――そして2020年にアヤックスのユースコーチとして指導現場に復帰された。
「それからはアヤックスに関わり続けています。ライアン・グラーヴェンベルフ(リバプール)やユリエン・ティンバー(アーセナル)のように、トップカテゴリでプレーしている選手たちを数多く指導してきました。今でもサッカーの世界に常に関わっている実感があります。実は、もし私が望めば、明日にでもアヤックスのトップチームの現場に戻ることだってできるんです。でも、私はヨーロッパよりアジアでそれをやりたい。ずっと自分が待ち続けている場所なんです。“無理”をするつもりはありませんが、声がかかれば行きます」
インドネシア代表コーチ就任、再びアジアへ
――実際に2025年、パトリック・クライファート氏が指揮するインドネシア代表で、U-23の指揮を執られました。
「パトリックから連絡をもらったんです。彼のことはよく知っていて、私に『手伝ってほしい』と頼んできました。私もずっとアジアで仕事がしたいという気持ちを持っていて、チャンスをうかがっていました。これまで私は、色々な指導者と関わりながら、トップリーグでヘッドコーチを務めた経験もあります。アジアの選手たちは、学ぶことに対してとても前向きです。2試合良い結果を出せなかっただけで、『もう出て行け』と言われるようなヨーロッパとは違って、アジアの人たちは幸せそうに学ぼうとしている。それが心地よく感じられるんです。インドネシアではU-23代表を率いて、(東南アジア選手権で)決勝まで進みましたが、みんなが幸せそうで、決して殺伐とした空気にはならなかった。ヨーロッパでは味わえないものでした」

アジアでの指導を熱望するジェラルド・ファネンブルグ。2025年にはインドネシア代表スタッフの一員に(本人提供)
――選手の育成に情熱を注がれていますね
「私は人生を楽しみたいし、サッカーを楽しみたい。若手選手と一緒に仕事をして、彼らをトップレベルまで引き上げることは、私が一番好きな仕事です。グラーヴェンベルフやティンバーといった、アヤックスの下部組織から巣立っていった選手たちと関わって、彼らがトップカテゴリで活躍する姿を見るのは本当に嬉しいことです。彼らとは今でも良い関係が続いていますが、それは自分がずっと彼らのために仕事をしてきたからだと思います。教えて、レベルを引き上げ、チャンピオンにする。これをトップチームでも同じようにしたい。十分に可能なことだと信じています」
いまの日本はオランダより強い世代かもしれない
――30年前にあなたがプレーしていた頃と比べて、今の日本サッカーをどう見ていますか。2026年ワールドカップでは、日本代表とオランダ代表が2-2で引き分けました。
「一番大きな違いは、ヨーロッパで働くこととアジア、特に日本で働くことの違いだと思います。日本人選手は常にレベルアップしようとしていますし、礼儀正しく、勤勉です。それはオランダとはまったく違う文化ですね。私は日本人のそのメンタリティが好きなんです。実は、私が日本に渡った時、オランダのジャーナリストたちに『お前は日本で一体何をするつもりだ?』と聞かれたことがあります。いつもそういう反応でした。でも半年ほど日本にいた後、彼らにこう言ったんです。『待ってくれ、日本はもっと評価されるべきだ。選手が良いから、必ず日本は伸びてくるぞ』と。今の日本代表を見てください。もしかしたら、今のオランダ代表よりも強い世代かもしれませんよ。オランダは自分たちを“ラッキー”と言いがちですが、実際には何も勝ち取れていない年も多い。それは奇妙なことだと思いますよ」
――Jリーグ自体の進化に加えて、オランダでプレーした日本人選手の系譜も伺いたいです。小野伸二さんを皮切りに、今では冨安健洋選手、板倉滉選手、堂安律選手といったあなたにとっての“後輩”もプレーし、直近では佐野航大選手がPSVへ移籍しました。このことをどう見ていらっしゃいますか。
「とても良いことだと思います。小野伸二の頃からそうですが、ヨーロッパで経験を積んだ選手たちは、多くを学んで、それを持ち帰ることができる。それが日本サッカー全体のレベルアップにつながります。日本に戻って、自分がどう成長したかを後進に語り継いでいく――それも彼らの役割だと思うんです。日本人選手のメンタリティは本当にトップクラスです。彼らは文句を言わず、黙々と自分がやるべきことをやる。私はそこが大好きなんです」
――今後のキャリアについて、どのようなビジョンを持たれていますか。
「あと5、6年はコーチを続けたいと思っています。中でもジュビロ磐田には特別な思い入れがあり、心の中では一番の優先順位です。あそこには特別な記憶がありますからね。ただ、Jリーグのどのクラブからオファーがあっても柔軟に対応するつもりです。例えば、私がプレーしていた頃はまだJリーグに所属すらしていなかったV・ファーレン長崎のようなクラブ。実は長崎という街の歴史にも惹かれれているんです。自分がこれまで積み重ねてきたキャリアと経験のすべてを、Jリーグのどこかのチームに伝えられたら、それは本当に素晴らしいことだと思います。」
ーー今でもJリーグは見られますか?
「YouTubeなどでよく見ていますよ。私のころより手段も豊富になったからね(笑)チーム名や選手全員の名前までは分かりませんが、『スタイル』は大体把握しているつもりです」
生まれ変わっても同じ道を選ぶ
――最後に、これまでのキャリア、そして人生を振り返っての率直な思いを聞かせてください。
「人生で一番大切なものは、サッカーと家族です。もし生まれ変わったとしても、同じ道を選びます。サッカー選手になって、家族を持って、コーチになる。それが私の人生で一番美しいものだったと思うから。それ以上に大切なものは、私にはありません。」
ーー選手としてのジェラルド・ファネンブルグは、多くのものを勝ち取りました。その上で敢えて問いますが「心残り」は?
「自分のキャリアで後悔はまったくないですね。サッカー選手として生きてこられた人生に、心から感謝しています。もちろん個人としては、誰にでも起きるような、思いがけない出来事もありました。父を亡くしたこと、そして娘を亡くしたこと。しかしそれは仕方のないことです。それでも、人生というのはそういう出来事が起きた時にこそ、幸せを求め続けていくものだと思っています」
インタビュー終盤、通訳を務めた岡崎氏から、現PSVアイントホーフェン監督のペーター・ボス氏がかつてジェフユナイテッド市原でプレーしていたという話題が向けられると、ファンネンブルグ氏は「もちろん、よく知っているよ」と即答。さらに、自身が10代の頃に出場したオランダの若い世代の代表チーム――当時マルコ・ファン・バステンがキャプテンを務めていた――でも、チームメイトだったことを明かしてくれた。
Jリーグ開幕から30年が経ち、カレンダーも“欧州基準”となり、これからは横一線での動きとなってくる。その中で改めて「世界水準」が何かを考える時がきたのかもしれない。
取材・執筆:向山純平
通訳:岡崎慶太
協力:Korkmaz (Harun) Kosedag



