ゴッドウィン・アヤログ
「僕はお金がなかった。両親もそうだったので、僕は自分の授業料を仕事で稼がなくてはならなかったし、兄弟も助けなければいけなかった。だからその仕事をしたものだ。
死体置き場が学校の近くにあって、そこにはガーナ人がいた。僕はコソコソと隠れながら学校からそこに行ったものだよ。ガーナ人は僕に『何が必要なんだ?』と尋ねてきて、仕事のことを話してくれた。
彼は僕がそこで何が出来るかを知りたがっていた。そして僕は主張した。僕は手袋と薬品を求め、1日目から4体の死体を洗った。
僕は恐怖を信じていない。真夜中に森へ狩りに行ったこともある。そして、何かを恐れなければならないということは決して思わなかった。
その時、僕は1体につき100ナイラを受け取った。そしてその仕事を4年間続けた」
「その後は野菜を運ぶ仕事を始めた。ヤムイモ、レタスなどを輸送した。そして雨季の時には、ニジェール川の中に沈んだボートを引き上げるために川へ行ったものだ。
沈没した船を川と泥から引き上げることは、僕にとってとても有利な仕事だった。そのために泳ぐ方法を学ばなければならなかった」
「また、僕はストリートファイターでもあった。僕はしばしば自分との戦いで何分保つかということを賭けたものだ。
ストリートの周りで僕は戦った。その地域の王者を誘い、戦い、そして勝った。多くの血が常に流れていた。人々は血を見たがっているから、これは常にお金をもたらしてくれた。
あるときには、人々は僕を呼び出して『地域最強の男を倒してくれ』と頼まれたこともある。
僕はテコンドー、カラテ、そして少しボクシングをやった。彼らが僕のストリートファイトを助けてくれた。フットボールに集中し始めたころには、ゴールキーパーとしても助けになったよ。
そういうわけだから、僕はキーパーとして守ることに関しては恐怖を感じたことなどないんだ」
「(猫について)
父親が話したところによれば、猫というのは生まれたときに与えられたものらしい。生まれたときから、背中が地面に触れることを決して認めなかったそうだ」
「(サッカー選手にならなかったら?)
サッカーなしでは何をしていたか……僕は本当に分からない。それは神のみぞ知るだね。
おそらく、僕は死んでいたか、悪いグループに入っていただろう。カルト団体か、ギャングか。そして破滅の道に進んでいた。しかし、こうなれたことを神に感謝している。
僕は苦しい人生を送ってきた。そして、振り返れば、サッカーがこれだけ自分を違う世界へと連れて行ってくれた。それにただ感謝をするだけだよ」
「(3人の子供がいるが、サッカー選手には?)
我々のサッカーにおいては多くの苦しみがある。子供にはサッカーは勧めるだろうが、ナイジェリアではしない方が良いと伝えている。
僕は彼らに学校へ行けと薦めている。そして、学校が全てではないと言うこともね。彼らが読み書きが出来ればそれでOKだよ。
父は僕に何も残してくれなかった。しかし僕は彼らのために何かを残したい。それが彼らのためにしたいことでもある」
「蘇った死者」「無法者」と呼ばれるGK、壮絶過ぎる人生を語る
Text by 石井彰(編集部)
カズに憧れて全身赤のスーツを買ったことで校内一の人気者になったが、中身が伴わず一発屋で終わったというエピソードを持つ島根県出身のエディター。その影響か赤いチームを好み、ヴァランシエンヌ、レイションエス、ノッティンガム・フォレストなどを応援している。
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