ジャン=アラン・ブムソング

元フランス代表のセンターバックで、オセール時代はギー・ルーの指導を受けフィリップ・メクセスとのコンビでその名を轟かせた選手。カメルーン生まれで、14歳の時に母親と兄弟と共にフランスに渡った。今をときめくル・アーヴルの下部組織出身で、大学に通いながらプロフットボーラーになった。

ル・アーヴルでプロ1年目から活躍したことで、リヴァプールのジェラール・ウリエが興味を示していたが負傷もあって残留。2000年にオセールに加入した。

オセールでセンターバックに転向。前述の通りメクセスとコンビは秀逸であり、1998年のワールドカップを制したローラン・ブランとマルセル・デサイーの後継コンビともいわれた。また、当時のオセールはジブリル・シセ、テーム・タイニオ、オリヴィエ・カポなど若手の宝庫であり、2002年のワールドカップを沸かせたセネガル代表のカリル・ファディガ、アムディ・ファイなども在籍していた。

フランス国外への移籍が何度も噂され、リヴァプールと交渉していたが、最終的にはスコットランドのグラスゴー・レンジャーズに移籍。ウリエはブムソングを批判したが、ウリエから正式な契約オファーが来なかったことでレンジャーズ行きを決めたという。

レンジャーズではすぐにフィット。たった半年の活躍が認められ、2005年の1月にニューカッスルが800万ポンド(およそ12.5億円)で引き抜いたが、不安定な守備を連発。プレミアの水に馴染めず、チーム内の序列をどんどん下げていき、2006年の8月にカルチョ・スキャンダルでセリエBに降格したユヴェントスに移籍している。なお、移籍金はわずか1年半の間に半分以下に下落した。

ユヴェントスではセリエA復帰に貢献したが、ディディエ・デシャンが指揮官を退任。新監督のクラウディオ・ラニエリの下での活躍を誓ったが、負傷で出遅れて出番を失って退団した。その後はリヨン、パナシナイコスでプレー。2013年に33歳の若さで引退している。

クラブレベルで輝いていた時期でも、ブムソングは代表でも思うような活躍ができなかった。それはブラン&デサイーの後継者であったリリアン・テュラム&ウィリアム・ギャラスの壁を崩せなかったからだ。オセールの同僚であるフィリップ・メクセスも同じように代表での道が拓けず。2000年代のフランス代表が鉄壁だったことの証明ともいえるだろう。

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