2000年シドニー五輪 中村俊輔

1996年のアトランタ五輪がオーバーエイジを使わず2人しかA代表経験者がいなかったのに対して、2000年のシドニー五輪は大会前から“行ける空気”が漂っていた。

1999年のナイジェリアで行われたワールドユースで準優勝したメンバーをベースに3人のオーバーエイジを加えたチームは、A代表で主力となっていた選手も少なくなく史上最強との呼び声も高かった。

そんな空気を一変させたのが、初戦で戦った南アフリカ代表のFWベニ・マッカーシーであり、彼1人の個人技に日本代表はたじたじになった。それでも高原直泰の2ゴールで日本代表は勝利し続くスロヴァキア戦でも勝利。グループリーグ最終節でブラジル代表には前回大会のリベンジをされたものの勝ち点3の南アフリカがスロバキアに敗れたこともあり日本はグループリーグを突破しベスト8に進むこととなった。

惜しくも準々決勝では、アメリカ代表FWランドン・ドノヴァンらの前に敗れることになったが、中田英寿、稲本潤一ら2002年のワールドカップを戦うメンバーの中で10番をつけたのは中村だった。

しかし、その中村は2000年のアジアカップで日本代表メンバー入りを果たしたものの、2002年ワールドカップでは最後に落選。後に海外移籍しセルティックでは英雄的存在となった。2006、2010年のワールドカップには出場し、今でも横浜F・マリノスの生きる伝説として若手のお手本となるようなプレーをし続けている。

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