リハビリ期間中に感じた“仲間の声援の力”

中学校入学から高校卒業までJFAアカデミー福島でサッカーの技術を磨いた山之内だが、Jリーグクラブからのオファーはなかった。

山之内は「高校を卒業してプロになるレベルではないと思っていた」と当時の自分を評価し、その上で東洋大へ進学した理由を明かした。

「JFAアカデミーの先輩方も(東洋大へ)行っていて、東洋大のサッカーの内容などをいろいろ聞かせてもらっていました。一番は監督から声をかけてくださったのが大きいですね。そこを踏まえて決めました」

もともと“常に考えてプレーすること”を心がけていた同選手は、東洋大を率いる井上卓也監督からの勧誘を受け、東洋大に進学。自身が意識している「考えるサッカー」をさらに深めていった。

画像: 東洋大を率いる井上監督(写真 縄手猟)

東洋大を率いる井上監督(写真 縄手猟)

大学3年だった2024年6月に柏への入団内定が決まった東洋大の背番号5だが、同年9月ごろから右足首の関節ねずみ(関節内遊離体)を発症。痛みを感じながら同年12月に行われたインカレに臨んだ。

同大会では、左サイドバックとセンターバックの二つのポジションでプレーした。痛み止めの注射を打ちながら試合に出場したが、大阪体育大との準々決勝では自慢の攻撃力で存在感を示し、2アシストを記録してベスト4進出の立役者となった。

東洋大はこの大会で、山之内の一学年先輩であるDF稲村隼翔(はやと、スコットランド1部セルティック)、MF新井悠太(J1東京ヴェルディ)らの活躍もあり、初の大学日本一に輝いた。

優勝が決まった瞬間を回想した東洋大の背番号5は、「そのときは実感がないというか、『本当に全国優勝したんだ』みたいな感じでしたね」と、素直に喜びを噛みしめる余裕はなかったと明かした。

画像: リハビリ期間中に感じた“仲間の声援の力”

山之内はインカレ終了後の今年1月に関節ねずみの除去手術を受けた。

手術後のリハビリから復帰しかけていた中、今度は右足ハムストリングの肉離れで再離脱した。

「焦りはありましたし、このまま大丈夫かなという不安もありましたね」

それでも山之内は、新体制のキャプテンとしてチームを献身的にサポートし、試合では応援席からピッチ上で戦う選手たちへ声援を送り続けた。

「リーグ戦で勝てない時期が続いたときに、自分が出てなんとかしたいという気持ちがありました。試合に出られない悔しさがあった分、違う面でチームをサポートできたらと考えながらやっていました」

その後、約5カ月間のリハビリを経て、6月8日に行われた関東大学サッカーリーグ1部第10節の明治大戦で復帰。同月11日に行われた天皇杯2回戦では、内定先の柏と対戦した。

画像: 内定先の柏相手に先制点を奪った山之内(写真 縄手猟)

内定先の柏相手に先制点を奪った山之内(写真 縄手猟)

延長戦にもつれ込んだこの試合は、延長後半2分に山之内が値千金の先制弾を挙げた。

「リハビリ期間中もそれ(柏との試合)がモチベーションになってやり続けることができた」という東洋大の主将は、内定したクラブを相手に「点を決めたらすごいことになる」と考えていたが、得点を挙げた直後はスタンドで応援していた仲間への想いでいっぱいだった。

「自分にとっては、仲間の応援がすごく力になっていました。ケガの期間は一緒に応援して、改めてすごさを感じていましたし、(得点直後は)応援席に飛び込むことしか考えていなかったです」

柏との試合に2-0で勝って下剋上を起こした東洋大は、その後J1アルビレックス新潟相手にもジャイアントキリングを達成した。だが、J1ヴィッセル神戸に敗れて天皇杯ラウンド16で大会を後にした。

山之内は3回のJ1クラブとの対戦に、「チームとしては守り切る、 簡単に失点をしないというところが成長できたかなと思います。個人としては攻守の対人プレーで通用したかなと」と手ごたえを感じた。

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