2002年のドラフト11位で横浜ベイスターズ(現DeNA)に入団した木村昇吾氏。
広島カープ、西武ライオンズを渡り歩いた後、2017年に自由契約を言い渡された彼は、クリケット選手に転向。インドやオーストラリア、スリランカなどに渡ってプレーを続け、クリケットの日本代表チームでも活動している。
なぜ日本人には馴染みの薄いものの、世界第2位の競技人口を誇るクリケットの魅力や、プレーを続ける理由を語ってもらった。

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ドラフト11位での指名は「素直にホッとした」
――木村さんは尽誠学園高等学校、愛知学院大を経て、2002年のドラフト11位で横浜ベイスターズ(当時)に入団されました。かなり終盤での指名だったと思うんですが、待っている時はどのような気持ちでしたか?
当時僕が在籍していた愛知学院大は、愛知県の1部リーグに属していました。東京六大学や東都リーグに比べてリーグ自体の注目度は低かったですが、僕個人としてはある程度の成績を残しましたし、U-20日本代表にも選出されていましたから。
自分よりも上手な遊撃手を見たことがなかった点を踏まえても、「きっとプロの世界には行けるんだろうな」と信じていました。
ーーものすごい自信をお持ちだったんですね。
そうですね。(苦笑) 当時の僕は根拠のない自信満ち溢れていて、プロになるためにやるべきことをやっていたつもりでしたし、「もし僕の身体能力をもってしても、プロ野球選手になれないのなら、自分自身の怠慢でしかないだろう」と思っていました。
――そんな自信と共に臨んだドラフト会議では、予想に反して声のかからない時間を長く過ごすことになります。
最初は「とある球団から、多少前後するかもしれないけど、4位で指名するから!」と言われていたんですけど、それなのになかなか指名されなくて。
周囲の様子を見ていると、「もしかしたら指名に漏れるのでは」といった、緊張感のある雰囲気を感じ取りました。
そんな時に、横浜のドラフト10位で武山真吾選手が指名を受けるんです。
「同じ愛知県の享栄高校か、真吾が昇吾に変わらないかな……」
と考えながら中継を見ていると、その名前で自分の名前が呼ばれて。全指名選手97人の中で、95番目の指名だったので、やっぱり指名された瞬間はホッとしましたね。
――翌年はルーキーながらも、オープン戦に差し掛かると、一軍に抜擢されました。
(当時遊撃手のレギュラーだった)石井琢郎さんの上手なグラブ捌きや、打撃練習で次々と本塁打性の当たりを放つ選手たちを見て、「すごいな」とは思いましたけど、「何とかなるだろう」と感じる部分もあって。キャンプは2軍スタートだったものの、最初の試合で本塁打を打てたりしたこともあり、オープン戦の時期に一軍に上げてもらえたんですよ。するとそこでもヒットを打ち、とんとん拍子に開幕一軍の切符を掴むことができました。

(C)Getty Images 木村選手がプロ入り初ヒットを放った伊良部秀輝投手(ニューヨーク・ヤンキース時代)
――開幕一軍の切符を掴むと、2戦目は早くもプロ初ヒットを放ち、幸先の用意スタートを切ったように見えました。
僕の初ヒットは、高校の大先輩で、その年日本球界に復帰された伊良部秀輝投手から放った三塁間へのバントヒットでした。
一塁コーチャーの辻発彦さん(当時)が「(木村選手は)初ヒットだから、ボールを渡してあげてほしい」と声をかけてくれたんですけど、そこから先は震えで頭が真っ白になってしまっていて、あまり詳しく覚えていないんですよ。
――新人の2003年は21試合に出場しましたが、残念ながらレギュラー獲得には至りませんでした。プロ野球のレベルの違いや、壁を感じたような瞬間はありましたか?
プロ野球でレギュラーを掴むような選手は、やっぱり体力が並外れているんですよ。シーズンが幕を開けると、新幹線や飛行機での移動をこなしながら、約半年間毎日野球を続けなければいけない。
僕は開幕カードで初安打、その後も朝倉健太投手や佐々岡真司投手からも安打を放ちましたけど、だんだん疲労が溜まってきて。
身体が重くなり、思い通りにバットが触れなくなってしまったことが、結果として活躍の場を狭めてしまった原因なのかなと感じましたし、能力があっても、それを継続して発揮する難しさを学んだ一年でした。
――翌2004年はわずか1試合の出場にとどまるなど、2年目以降の木村さんは二軍でチャンスを伺う機会が多くなりました。
この頃から常に内臓にモヤモヤ感があって、気持ち悪さや違和感のある時期が続きました。後に「逆流性食道炎」を患っていたためからだとわかりまして。2005年に就任した牛島和彦監督に名医をご紹介いただいて、治療を始めたら徐々に食欲も戻り、これまで通りのプレーができるようになりました。
後にトレードを言い渡され、移籍先の広島カープで試合に出させてもらうことができましたけど、この時に治療をしていなければ、20代のうちに野球を辞めていたかもしれませんし、幸運だったのかなと思います。
広島に突然のトレード「横浜スタジアムでインタビューを受けられるような選手になります」

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――先ほどもお話にございましたが、木村さんは2007年のオフに広島カープへのトレードを言い渡される事になります。どのようにトレードを知ったんですか?
前日は球団の納会があり、箱根でゴルフをしていましたが、自宅に帰宅している途中に突然電話があって、「明日、球団事務所に来てほしい」と伝えられました。
既に契約更改の日程は決まっていたので、自由契約ではなさそうでしたけど、「何があるんですか?」と電話口のスタッフに尋ねてみても、「来ればわかるから」の一点張りで、モヤモヤしたまま次の日を迎えました。
僕が翌日に球団事務所に向かうと、球団の社長と本部長が座っていて。「うちでは活躍できなかったけど……」と前置きされた後に、笑いながら広島へのトレードを告げられました。
その様子を見た僕は、「こっちは捨てられんねんぞ!」と溢れ出てきそうな感情を必死に抑えつつも、活躍できなかった自分の不甲斐なさを受け止め、
「5年間お世話になりました。広島の選手として、ハマスタでヒーローインタビュー受けられるような選手になって戻ってこられるように頑張ります!」
と頭を下げて球団事務所を後にしました。
――その後、広島でレギュラーポジションを掴んだ木村さんは、2010年9月18日(横浜)には、横浜戦でプロ入り初の5安打を放つなど、有言実行の活躍を見せました。
その試合で、僕はプロ入りして初めてのヒーローインタビューを受けることになりました。「トレード前の約束を果たすことができた」という思いもありましたし、(試合に敗れた)ベイスターズのファンの皆さんにも「昇吾よくやったぞ!」とか、「あれだけ打てれば大したもんだ!」と言った感じで、両軍に関わる皆さんに祝福していただいたんですけど……。
翌日も僕の決勝タイムリーで広島が3対2で勝利し、2日連続で表彰台に呼ばれると、前日のようなベイスターズファンの温かい声援は無くなっていて。(苦笑)
――この年は対横浜の対戦成績が打率.593だったそうです。
「おそらく打率4割くらいかな?」と思っていたので、思った以上に打てているんですね。実は2日連続でお立ち台に登った翌日も2安打を放ち、チームの勝利(9対1)に貢献しているんです。3日連続のヒーローインタビューはさすがにお断りしましたけど。(苦笑)
誰かのことが嫌いとか、恨みがあるわけではなかったですけど、自分自身の「いつか見返してやるんだ!」という気持ちを持って、練習に取り組むことは大切なのかなと。今改めて振り返ってみると、そう感じます。
〈続く〉
取材: JUN.S
