マケドニア人によって完成されたインテルver.1.0

首位でウィンターブレイクを迎えたインテルは、冬のメルカートでモウリーニョの求めていた最後の1ピースを手に入れた。ラツィオで干されていたゴラン・パンデフだ。この選手の加入により3TOPシステムが完成したインテルは、結果だけではなくクオリティの向上にも成功。国内では相変わらずの好調をキープし、より“大人のチーム”へと変貌した。

2月、チャンピオンズリーグBEST16の相手はモウリーニョの古巣チェルシー。プレミア王者とのこの1戦をHOMEで2-1、AWAYでも1-0の勝利を収め、その力が確かなものであることを証明した。またこのチェルシー戦の勝利に至るまで、カンピオナートではミランを。コッパ・イタリアではユヴェントスやフィオレンティーナなどの難敵を退けるなど無類の強さを誇った。

3月に入ると、チャンピオンズリーグBEST8のCSKAモスクワ戦が控えていた。しかしこの直前に行われたカンピオナートのローマ戦。オリンピコで行われたこの試合で、まさかの敗北を喫してしまう。嫌なムードで臨んだ準々決勝のCSKAモスクワ戦であったが、インテルは去年までのチームとは違っていた。選手達にメンタル面でのダメージはなく、ロシアの新鋭を相手に危なげない試合展開を披露。見せ力でねじ伏せ勝利を掴み、見事2002-2003以来のチャンピオンズリーグ準決勝進出を決めた。

“マケドニアン”がもたらした変革

ゴラン・パンデフ。小国マケドニア出身ということで世界的に見れば有名選手ではないかもしれないが、セリエAを追ってきたファンの中に彼の名前を知らぬ者はいないだろう。だが、彼がインテルに所属していたことを知る者は決して多くなかったはずだ。そして、“古巣”に復帰してきたマケドニア代表FWが、インテルにここまでの好影響を与えると予想できた者も少なかったはずだ。

2010年冬、半年前にラツィオとの契約交渉がこじれ、飼殺し状態にあったパンデフはインテルに救われるような形で加入した。だが、“救われた”という考えは大きな間違いだった。彼がインテルを救ったのである。予てからモウリーニョがサイドアタッカーを求めていたことは周知の事実だが、クアレズマ、マンシーニ、ヒメネスは最後までフィットせずに新天地を求め、指揮官が志向しようとしていた4-3-3はお蔵入りしていたのだが、彼の登場によって、再び陽の目を浴びたのだ。言うまでもなく、彼はサイドアタッカータイプではなく、セカンドトップのプレイヤーであるが、彼の特徴である、「左足」、「ドリブル力」、「チャンスメイク力」に目を付けたモウリーニョは3TOPの左に彼を据えた。その起用には彼自身も全身全霊で応え、元々は守備に関心はなかったが、出場機会に飢えていたこともあり、不慣れなチェイシングも献身的にこなすなど攻守両面で貢献。“モウリーニョサッカー”は完成系に向かって大きく前進した。


"インテル3冠の軌跡 vol.2" |Feature @ June 2010|text by football web magazine Qoly

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