アーセナルから放出されたボスロイドを拾ったのがチャールトン・アスレティックであった。当時の移籍金は100万ポンド(約2億円)、トップチーム経験のない若者に払う額としてはかなりの高額だったが、3年目には8ゴールをあげるなど順調に成長をしていった。当時イングランドU-21代表にも選ばれている。

ところが、メンタル面の問題からチームを去っている。アーセナル、コヴェントリーと2度もピッチ外の問題でチームから放出された……という問題児ではさすがに国内で貰い手はいなかった。


そこで、目をつけたのがセリエAのペルージャであった。当時、指揮官のセルセ・コスミは無名の選手を3部、4部から発掘し育成してビッグクラブへ売却するという手法でチームをUEFA杯出場にまで導いていた。

獲得に際してガウッチ会長はこう述べている。

イタリア代表FWバッツァーニとブラジル代表FWアドリアーノを足した様な選手になれる素質があるが、まだまだ未熟である。

この年ペルージャはセリエBに降格することになりボスロイドも1シーズンでチームを離れるのだが、開幕戦でのゴールはデイヴィッド・プラット以来のイングランド人によるセリエAでのゴールということもあり大きく取り扱われた。


以降のボスロイドはイングランドのチャンピオンシップ(2部)を中心にプレーするストライカーとなった。

ところが、ただでは転ばない。2005-06シーズン、チャールトンで交通事故をおこし生死の境をさ迷い一時的に記憶喪失となったのである。さらにはドラッグが検出され逮捕……と、まだ"ドラマ"の主人公であるボスロイドに安息の日はなかったのである。

こうしたことがきっかけになったのかはわからないが、カーディフ・シティで3シーズン連続で二ケタ得点をあげ精神的にも成長、2010年11月には2部の選手でありながらイングランド代表にデビューしている。

ヴェンゲルはカーディフ・シティで活躍するボスロイドについてこう語っている。

私の後悔の1つだよ。彼を手放すのは早過ぎた。
我々は彼の活躍に驚いていない。少し人間的に落ち着いた頃に、その才能が開花すると思っていた。

結局、ボスロイドはプレミアリーグではさしたる結果は残せていない。QPRで2011-12シーズン、2012-13シーズンとプレーしたが、当時の同クラブは金に物を言わせてとにかく選手を買ってきては試してポイする典型的なダメクラブで10点以上とれるストライカーが10人ぐらいいたためである。

選手間競争に負けたボスロイドは2012-13シーズン当初などは背番号すらなくリザーブチームに登録されていた(後にローンへ出され復帰後には背番号37をつけ数試合出場した)。

QPRで一気に出場機会を失ったボスロイドは、昨シーズンはタイのムアントン・ユナイテッドでプレー、韓国代表DFキム・ドンジン(元ゼニト)らとチームメイトだった。

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