初めてのクラシコ

初めて両チームが戦ったのは1902年のこと、国王杯(コパ・デル・レイ)が初開催され両チームが初めて顔を合わせた。当時は1試合で決着をつけたため、5月13日にバルセロナはマドリーFCを3-1で勝利し、初対戦はバルセロナに軍配があがっている。しかし、バルセロナは決勝でビルバオに敗れ、惜しくも準優勝に終わっている。

このように当時は決して、バルセロナやレアル・マドリーの2強ではなく、ビルバオが強さを発揮していたのである。レアル・マドリーが国王杯で初優勝したのは1905年のこと、1908年まで4連覇を達成している。少し遅れてバルセロナが1910年に初優勝したが、20世紀初頭の国王杯はレアル・マドリーが強さを見せた時代でもあった。

1910年当時のバルセロナのチャント、チームで初めて作ったものになるという。

バルサとレアル、ライバル関係の成立

バルセロナとレアル・マドリーははじめからライバル関係にあったわけではない。決定的になったのは、1939年より約30年間続いたスペインのフランコ政権下でのことだ。

レアル・マドリーが“政府”のチームとして、多くのタイトルを獲得しスペインを代表する強豪チームとして地位を確実にした。その裏には、審判がレアル・マドリー有利であるとかまことしやかな噂が流されたほどだ。一方のバルセロナ側は・・・というと、1935年には会長スニョルが暗殺されソシオの会員数減少と危機的な状況に陥っていた。1935年2月3日のクラシコでは、バルセロナは0-8でレアル・マドリーに敗れている。

1943年、レアル・マドリーは国王杯準決勝第2戦で11-1でバルセロナ相手に勝利する。その背景には、試合前に警察が訪れてバルセロナに脅しをかけたのではないか?と言われている。

普通に考えて、11-1というスコアになるはずがない。後のIOC会長になるフアン・アントニオ・サマランチは、当時スポーツ新聞でこの試合を批判して解雇されている。彼はカタルーニャ人であるが、フランコ将軍側の人間であるのにだ。

1936~1939シーズンはスペインの内戦によりリーグ戦は開催されなかった。スペインの内戦はリーグが開催されないだけでなく、戦争によりサッカーチームの選手を失うという大きなチーム力低迷を招いた。チーム合併や戦力の保存などでこの危機を乗り越えたのは、何とアトレティコ・マドリーやバレンシアといったチームで、前者はリーグ2連覇、後者はリーグ4連覇と黄金時代を築いた。

1950年代に入ると、バルセロナ、レアル・マドリーの2チームが台頭する。政府の庇護があるレアル・マドリーと経済発展と共に復活をしたバルセロナの2チームである。フランコ体制下で、唯一カタルーニャの民族性を感じることができるサッカーの試合は、カタルーニャの民族主義を感じる唯一の場であり、ストレス発散の場であった。彼らは、カタルーニャ語の使用を禁止され、名前もスペイン語に統一されたためだ。

政治的な背景を元に2チームが優勝争いの本命となり、今日まで続く対立の歴史ができあがったのである。

【次ページ】禁断の移籍とは?