カレン(以下、――):まずは、グレシック・ユナイテッドへの移籍おめでとうございます。そして、今日はよろしくお願いします。

加藤友介(以下、省略):ありがとうございます!こちらこそよろしくお願いします!

――加藤選手ご自身のキャリアについては、これまで様々なところで紹介されていますが、改めて高校卒業後にアルゼンチンへ渡った経緯を振り返って頂けますか?

14歳の時にアルゼンチンへ2ヶ月間の短期留学をしたんですが、その時にボンボネーラ(ボカのホームスタジアム)で試合を見て、「アルゼンチンでプレーしたい」という思いが芽生えたんです。

そして、そこから高校卒業後にアルゼンチンへ渡り、ウラカンのU-18チームに入団しました。アルゼンチンは21歳までユースの選手として登録できますが、逆に言えば、「それまでにプロになれないとクビ」という状況でした。

――その厳しい環境の中での「トップチーム昇格」だったわけですね。

はい。20歳の時に、ユースの紅白戦に1軍コーチがたまたま見にきていて、で、たまたまハットトリック。

次の日には、1軍とユースの紅白戦でアシストをして、当時の監督であるトゥルコ(アントニオ・モハメド)に「明日から1軍の練習に来い」と。

さらに、その週にはベンチ入りすることになり、次の週には2部リーグデビューという流れで、本当にトントン拍子で進みましたね。

――デビュー後もコンスタントに出場機会を掴んだようですね。

ほぼ毎試合「途中交代で使われる」という扱いとなりました。さらにチームも1部昇格を達成。次のシーズンにはプロ契約を結びました。

結局、1部リーグでは3試合しか出場できませんでしたが、本当に良い経験になったと思っています。

――その後、一度日本に戻ったようですが。

1年ほど給与が未払いになったんです。さらに、家族の問題も重なり、日本への帰国を決めました。

ただ、そこからは、左の膝蓋腱炎がずっと治らずで、ほぼリハビリでしたね。結局、治るまでに8ヶ月ほど掛かりました。

その後、ようやく治って、「これからどうしたらいいか…」という時、知り合いの紹介で奈良クラブに練習参加させてもらいました。

で、それからの展開は、これも“たまたま”が重なりました。

練習試合の対戦相手だった、MIO(現、MIOびわこ滋賀)が1人足りない状況になり、僕が急遽MIO側の選手として参加したんです。そうしたら、監督に気に入ってもらえて…そのままMIOに加入です。

――実力はもちろんのこと、タイミングだったり縁の重要性も感じさせてくれる話です。

そうですね。ただ、当時のことを振り返ると、「目標を失ってブレていたな…」という感覚もあります。

実は、MIOに入る前にエージェントを通してルーマニアにもチャレンジしていたんですよ。ですが、契約には至らず…。その後に帰国して、MIOに加入という流れだったので、「海外でやりたい」という思いを抱えた中での選択でしたね。