1996年のアトランタ五輪で、日本がブラジルを相手に勝利を挙げた「マイアミの奇跡」の立役者となった伊東輝悦は、8月に50歳を迎えた今もなおJ3のアスルクラロ沼津の選手としてシーズンを過ごしている。
「とにかく暑すぎて、サッカーをやるには過酷すぎるよ。日差しを見るだけで、やる気が失せていくような時もあるから…。でも、サッカーをした時に感じる楽しさや喜びは、小さい頃からずっと変わらないんですよ」とあの夏から28年が過ぎた今も灼熱の中でボールを追い続ける思いを語った。
ブラジル戦の決勝戦は「ラッキーだった」
高校を経てJ開幕初年度の1993年に清水エスパルスに入団した伊東は、初年度から公式戦出場を果たすと、1995年頃からレギュラーに定着。U-23日本代表にも選出され、日本サッカー界としては28年ぶりとなる五輪の出場権獲得にも貢献した。
「アトランタ五輪は、日本代表が久々に五輪の本大会に出場できた大会でしたが、僕個人としても、ほぼ初めての世界の強豪国と対戦する機会でした。なので、大会前には本気で試合に臨んでくる相手に対して『自分たちがどれだけ通用するんだろうか?』という不安や期待感、そして大会前に見た低い下馬評を『見返してやりたい』という思いもあった。試合の時に感じた色々な気持ちや、緊張を感じながら、大会に向かったことを覚えています」
アトランタ五輪の初戦では、当時絶対的な強さを誇っていたブラジルと顔を合わせることとなった。
「『初戦でブラジルと対戦する』と聞いて自ずとテンションが高まりましたが、それと同時に実力や経験で上回る格上のブラジルと真正面から戦っても『絶対に敵わないだろうな』とも感じました。それでも、ブラジルの攻撃を受けて守りに入るのではなく、『誰が見ても分の悪い試合にどうすれば勝てるのか』を考えながら、各々が準備をして試合に臨みました」
ブラジルとの試合は伊東の事前に予想した通り、ボールを支配される展開で試合は進んだが、GK川口能活のファインセーブや守備陣の奮闘などもあり、スコアレスドローで前半を折り返した。
後半に入っても、勢いを強めるブラジルの攻撃に耐える時間帯が続いた日本だったが、後半27分にチャンスが訪れる。路木龍次のクロスに城彰二が反応するも、相手GKのジーダとアウダイールが交錯。こぼれたボールをゴール前に詰めていた伊東輝悦が軽く蹴ってゴールネットを揺らした。
「目の前にボールが転がってきて『ラッキーだな』と思いました。最後の局面は、自分でボールに触るかどうかギリギリまで迷ったんですけど、それを考えられるくらいの余裕もあった。あのゴールのおかげで時間が経った後も色々な人に思い出してもらえますし、今となってはボールに触っておいてよかったと思います」
1点をリードした日本代表は、負けの許されないブラジルのはさらなる猛攻を受けることとなる。
「得点を決めた後にベンチから『まずは守備から…』という指示があったと思います。得点を決めた後もブラジルがボールを持つ時間帯が続きましたが、チーム全員が高い集中力で試合に臨めていましたし、バランスよく守れたと思います」
この試合は伊東のゴールを守り切った日本が、そのまま1対0で勝利。歴史的な勝利に多くの人は驚愕したが……。日本はグループステージを2勝1敗で終えたものの、同じグループで金メダルを手にするナイジェリア、銅メダルのブラジルに次ぐ予選3位に終わり、決勝トーナメント進出を果たすことはできなかった。
「アトランタ五輪を振り返ってみると、世界の厳しさを感じつつも、自分に少しだけ自信がついたように思えた大会だったと思います。先日、久々に当時の試合を見直してみたのですが、ずっと守備に追われているイメージだった印象の試合の中でも、しっかりやれているところがあった。思った以上にボールを持てている時間帯があったので、それは自分でも意外に感じました」