酸いも甘いも味わった愛する磐田でのキャリア
磐田の愛を最優先にしてきたキャリアだった。
小川は静岡県富士市で育ち、同級生をぐんぐんと追い越していくスピード感あふれるプレーで静岡東部で名を馳せ、小学6年次にはACNジュビロ沼津の練習に参加した。
「実は小学校6年生の半分以上をジュニアユースで練習していました。静岡県で行われた世界大会に出場していたときに、たまたまそれを観に来ていたジュビロのジュニアユースのスタッフが『あの子いいじゃん』と声をかけてくれた。そこからだんだんとご縁があり、セレクションを受けてジュニアユースに入ることが決まりました」
その後順調にジュビロ磐田U-18に進んだが、プロへの道は険しくトップチーム昇格は果たせず。それでも磐田でプロになる夢を抱いた小川は、2010年に強豪明治大へと進学した。

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「怖い先輩だった」
明治大の後輩が明かした小川のイメージだ。誰にでも気兼ねなく接し、人一倍家族想いの小川とは思えない証言だが、当の本人は照れ笑いを浮かべながら当時を振り返った。
「めちゃくちゃ怖かったと思いますよ。あのときはジュビロに戻ることだけを考えていた。だからそのためにはどうしたらいいか逆算して行動していた結果、怖い先輩になるという結論になったんです。
大学で試合に出て活躍しなければ、プロには近づけないし、そもそもチームが優勝争いをしていないといけない。常に高いレベルで戦っていかないと、チャンスがこないと考えていました。そのためには、まずは強い集団を作っていくしかない。大学生にはいろいろな誘惑が潜んでいるから、チームとしてより強くなるために、あえて怖い先輩を選択したんです」とニヤリと笑った。
明治大は小川の思惑通りの強さを誇った。2011年には関東大学リーグ準優勝、全日本大学サッカー選手権大会準優勝。2012年には関東大学リーグ準優勝と、タイトルこそ勝ち取れなかったが、全日本大学選抜にも選ばれるほどの選手となった小川は、主将を務めた大学3年次に磐田からのオファーを見事につかんだ。

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磐田のために捧げてきた4年間が報われた。
ルーキーとなった小川は、開幕初年度はリーグ戦4試合に出場。そこから年々出場時間を増やしていき、2021年のJ2優勝にも貢献。爆発的なスプリント能力と戦術理解力で中心選手となり、公式戦237試合に出場した。
ただ、決して順風満帆のキャリアではなかった。
2016年には右ひざ前十字じん帯損傷と半月板損傷。その後も右大腿二頭筋肉離れや右足関節外側じん帯損傷と、度重なるケガに悩まされた。いまでは克服しているが、何度もオーバートレーニング症候群も発症してきた。
「決して満足できるキャリアではないですし、僕はプロに入ってから約4年くらいはケガなどでサッカーをできていない。やっぱりそれ(負傷など)がなければ、もっと上のレベルにいけたかもしれないと思うときがあります」と、心が折れそうになる日々を過ごした。

(写真 松本山雅FC)
それでも34歳までキャリアを続けられた理由は、周囲のサポートがあってこそだという。
小川は2015年に明治大時代から交際していた彩花さんと結婚。翌年には待望の第一子を迎え、さらに2017年には女の子を家族に迎えた。
「(オーバートレーニング症候群のときは)うつみたいな感じで、やる気がなくなっていた。その中でも、妻が二人の子どもを見ながら懸命にサポートしてくれました。スプリントコーチの方にもお世話になり、負傷後に足が速くなったこともあった。人として成長させてくれるいい機会でしたし、人生に幅を持たせてくれたのは、あのケガがあったからだと思っています」
酸いも甘いも経験した磐田でのプロ生活だ。
だが、愛するクラブでの日々は、11年目となった昨季の“あの試合”をきっかけにして終わりを告げた。
