家族と離れたキャリア初の期限付き移籍
宮崎戦後、小川の中でクラブを離れる気持ちは固まっていた。
2024年シーズンにおける磐田でのリーグ戦出場は3試合に留まった。また、クラブの中でも33歳とベテランの域に達していた男はこの年が契約最終年。
「正直、ジュビロで引退することをイメージしていましたし、ジュビロでキャリアを終えることができれば一番いいと思っていました」と、キャリアの着地点についても考え始めていたときに臨んだあの試合。
小川は同試合をきっかけに、シーズン途中でJ2ジェフユナイテッド千葉への期限付き移籍を決断。ベテランにとって初めての移籍だった。
千葉への移籍リリースは7月8日に出され、小川からは「いま伝えるべきことではないかもしれませんが、僕はジュビロ磐田というクラブが大好きです。そしてこれからもその気持ちは変わりません」と、チームへの想いが伝えられた。

初めての移籍となった千葉でプレーする小川(写真 浅野凜太郎)
サックスブルーの生え抜きは、このとき既にクラブとの別れを覚悟していた。
「あの状況で契約年数も残り半年だったので、ジュビロに帰ってくることは不可能だと確信していました。だからあの発言になった。もちろん、僕にとっても出ていくことは簡単な判断ではなかった。だからこそ、しっかりと覚悟を持って行きたいという想いを込めて書きました」
このとき妻の彩花さんとの間には第三子が誕生したばかりだった。それでも小川は愛する家族を磐田に残し、単身で千葉へ渡る決断をした。
「正直、ジュビロ一筋で終わりたかった。あの試合がなければ、この夏にジェフから(オファーが)きても、行かないという判断をしていました」と断言するほどだ。

(写真 浅野凜太郎)
去り行く仲間たちを11年間見送る立場だった男が、「こんな感じで移籍って決まるんだ」とついに見送られる側になった。家族や友人、そして明治大時代の先輩であり、磐田でもともにプレーした山田大紀(ひろき)さんにも片道切符の可能性を告げていた。
「もう戻ることは無理だろう」
断たれてしまったワンクラブマンの称号。新しい環境に飛び込むことが苦手と話す小川は、移籍に抵抗もあった。
しかし、抱えていた不安は杞憂で終わった。
「(千葉への移籍は)すごくいい経験でした。人間関係や新しい環境になじむことは、そんなに難しいことじゃないと知れた。サポーターのみなさんも熱く鼓舞してくれましたし、ジェフに移籍してからすぐに試合に出られたことも含めていいチャレンジでした」
千葉には約半年間の在籍でリーグ戦13試合に出場。シーズン途中にはJリーグ通算200試合出場を達成し、記念セレモニーには磐田から家族も駆け付けた。
実りある期限付き移籍となった一方で、目標としていたJ1復帰は果たせず。シーズン終了後に千葉からのオファーはなく、磐田からは覚悟していた契約満了通知が届いた。
下部組織時代を含めて17年間過ごした磐田でのキャリアが終わり、小川の進退についての家族会議が行われた。
