HOME > コラム > オマーンサッカー史の分析 オマーンサッカー史の分析 2012/11/10 21:30 Text by 駒場野/中西 正紀 サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。 Twitter Facebook Others 記事一覧 Qoly読者の皆さん、こんにちは。私が所属するRSSSFでは世界中のサッカーに関するあらゆる情報を集めています。その中には当然日本の情報もありますし、オマーンの情報もあります。そこでQolyでのコラムの第2回では、オマーンという国の成り立ちにも触れながら、そのサッカーの歴史を振り返り、成長の理由を分析していきます。 ☆比較的安定したスルタン支配 アラビア半島の南東部にあるオマーンには古くからイスラム教徒のアラブ人が住んでいる。今の国家の原型は17世紀に発展を始め、19世紀には商業活動を通じて現在のパキスタンからタンザニア(ザンジバル)にかけてのインド洋沿岸地域を広く支配する海上帝国を作ったが、イギリスに海上覇権を奪われると衰退し、1891年にイギリスの保護国となった。 第二次大戦後にイギリスが衰える中、オマーンは自治権を確保する一方で対外的には鎖国政策を採っていたが、1970年にカブース・ビン=サイードが父を追放する宮廷革命に成功して自らスルタン(国王)となると1971年に国連へ加盟し、内乱を鎮めて国際社会へ参加した。以後、国家基本法の制定や諮問議会の設置などを進めながら、基本的にはカブース国王が統治する絶対君主制を維持している。 独立後のオマーンを支えているのは石油と天然ガスだが、2011年の原油生産量は4210万トンで世界の1.1%、天然ガスは265億立方メートルで同0.8%に過ぎず(出典1)、OPEC(石油輸出国機構)にも加盟していない。ただし広島県(都道府県12位)とほぼ同じ287万(2008年データ、2010年IMF調べ)の人口を支えるには十分で、GDPは2万ドルを超えてチェコやポルトガルとほぼ並び、豊かな国を作ってきた。この「適度な生産力」は外国人労働力への過剰な依存を回避し、湾岸諸国で発生している社会不安の危険性を減らした。王族を含むオマーンの主流派が他宗派に寛容なイバード派な事もあり、「世界平和度指数」でも中東ではカタールに次いで高い。 ☆湾岸諸国の壁 このように緩やかながら堅実な発展を続けたオマーンの国情は、そのサッカー代表チームにも反映された。 RSSSFによると、オマーン代表として初の国際試合は「鎖国時代」の1965年8月にエジプトで行われたパンアラブ競技大会である。しかし初戦でスーダンに0-15となり、その後も北イエメンに1-2だった以外はリビアに1-15(ただし、これがオマーンの初ゴール)、シリアに0-13の大惨敗となり、翌1966年にはイラクに0-21と同国史上最悪の結果を記録して姿を消した。 カブース体制になって代表チームが復帰したのは1974年、第3回大会で初参加となったガルフ杯だった。FIFAではこれを最初の国際Aマッチと認定している。1976年の第4回大会ではUAEに対して1-1と初の引き分けに持ち込み、以後1984年第7回大会の自国開催(首都マスカットの王立オマーンポリススタジアムを使用)を含めて1988年まで7大会連続最下位、1990年に初めて5チーム中4位の後は再び1996年の自国開催まで3大会連続最下位と厚い壁に阻まれながらも、アジアの中ではレベルの高いペルシャ湾岸のアラブ諸国と試合を重ねてきた。 その中でオマーンの実力と環境は確実に整備され、1978年に設立されたオマーンサッカー協会は1979年にAFC、1980年にFIFAに加盟して本格的にフットボールファミリーの仲間入りをした。1984年9月24日には初参加のアジア杯予選でネパールを8-0で下し国際Aマッチに初勝利した(サウジアラビアのジェッダで開催)。ただし、FIFA.comのデータベースでは1982年2月17日、パキスタンのカラチでの親善試合でバングラデシュに3-1で勝った試合を初勝利と紹介している。 1986年には敵地の親善試合でバーレーンに3-2で勝利し初めて湾岸諸国を撃破。9月に韓国で行われたアジア大会にも出場してパキスタンを破り、UAEとタイには引き分けた(ベスト8進出はならず)。また、1985年10月にはマスカットに収容人数4万人(現在では3万3000人に変更)の国立多目的競技場、スルタン・カブース・スポーツコンプレックスが開場し、オマーン国内での国際試合開催が安定して可能になった(以後、特記のない場合は、オマーン国内での試合会場は同スタジアム)。1994年にはアメリカW杯前に同大会でベスト4に入るブルガリアを招いて親善試合も行い(1-1)、広島でのアジア大会にも参加するなど、徐々にオマーン代表の試合数が増えた。 横山謙三監督が率いる日本代表との初対戦はこの時期の1988年2月2日で、マスカットでの試合では終盤に前田治の代表初ゴールを許し1-1と引き分けた。その後、同年3月のガルフ杯でオマーンは参加7回、36試合目で同大会初勝利を挙げた(カタールに2-1)。 ☆躍進の始まり オマーン代表の転機は1996年だった。後にジェフ市原を率いたスロヴァキア出身のジョゼフ・ベングロシュ監督のチームは6月のアジア杯予選ではイランに2敗して敗退、10月のガルフ杯では既述の通り最下位となったが、前者ではネパールとスリランカ相手に4戦4勝、後者でもUAEとバーレーンに引き分け5試合で勝ち点2を獲得した。その前後の親善試合ではマリやモザンビーク、さらにニュージーランドまでマスカットに招き、オマーンに欠けていた国際経験を豊富に積んだ。以後、オマーン代表は毎年国際試合を行っている。 1997年もベングロシュ監督は残り、フランスW杯1次予選では4組で加茂監督の日本と対戦し、マスカットでの3月23日は小村徳男の得点で0-1と敗れ、得失点差の関係で最終予選進出が絶望的だった6月28日(東京・国立)には中田英寿にゴールを許したが1-1と引き分けた。同予選でもネパールやマカオとの4試合は全勝で終えている。 同年限りでベングロシュは辞任し、後任監督が未定の1998年2月18日には初めて世界のトップクラスとの勝負となるドイツ戦をホームで行い、0-2で敗れた。3月にはイランを前年の予選でW杯に導いたバドゥ・ヴィエイラを新監督とし、ガルフ杯ではカタール(2-1で勝利)・バーレーン(2-2で引分)を上回って史上最高の4位に入り、アジア大会予選では初進出の2次予選でW杯出場国のイランを破った。ただし、1999年のアジア杯予選ではイラクとキルギスに敗れ本大会出場を逃している。 2000年代に入ってもオマーンは国外の指導者を招いて積極的な強化を進めた。2001年、クウェートでガルフ杯2連覇のスロヴァキア人、ミラン・マチャラを新監督に招くと、4-5月の日韓W杯アジア1次予選1組を5勝1分で突破した(シリアとのアウェー戦のみ引き分け、他はラオス・フィリピンと同組)。8-10月の最終予選B組は旧東ドイツ出身のベルント・シュタンゲ監督で臨み、ホームの中国戦とアウェーのウズベキスタン戦に連敗すると自国人のラシード・ジャベルに交代したが、結果は勝ち点6で最下位となった(中国が本大会出場)。ただし、ホームではウズベキスタンに勝ち、UAE戦2試合とアウェーのカタール戦に引き分けるなど後半には立て直し、初めてオマーンのW杯出場が現実の可能性を持った。2002年1月のガルフ杯では5位に後退したが、初めてクウェートに勝っている。 ☆マチャラ時代 2003年、マチャラが監督に復帰すると快進撃が再開され、9-10月のアジア杯予選で前年のW杯ベスト4の韓国をマスカットで倒し、同予選1位で初の本大会進出を果たした。また、この年にはGKアリ・アル=ハブシがノルウェー1部のリンに移籍し、初めて欧州のプロリーグでプレーするオマーン人となった。年末から2004年1月にかけ行われたアジア杯では4位になった。 2004年にはジーコジャパンと3試合対戦したが、いずれも0-1で敗れた。2月(埼玉)と10月(マスカット)はドイツW杯アジアの1次予選3組、7月(中国・重慶)はアジア杯本大会のグループリーグだったが、オマーンはいずれも突破に失敗した。ただ、アジア王者の日本への善戦は12月のガルフ杯へつながり、準決勝でバーレーンを3-2で下し、決勝でホスト国のカタールに延長戦後のPK戦で敗れたが(1-1、PK4-5)、過去最高位の準優勝となった。バーレーン戦の2得点はアジア杯のイラン戦(2-2)でも2ゴールを決めたFWアマド・アル=ホスニで、同年夏にイングランド・プレミアリーグのボルトンへ移籍していたアル=ハブシと共にその後長くオマーン代表の中心となった。 2006年もオマーンはマチャラが指揮し、アジア杯予選を突破して2大会連続の本大会出場を決めた(出場決定後の最終節でUAEに敗れC組2位通過)。しかし、2007年7月の本大会ではマチャラがバーレーン代表へ移り、アルゼンチン人のガブリエル・カルデロンを監督に迎えたオマーンはグループリーグA組でホームのタイに0-2で敗れ、前年W杯ベスト16のオーストラリアには引き分けたが、最下位で大会を去った。オマーンの実力は確実に向上したが、まだ「マチャラマジック」に頼る部分が多かったともいえる。 ☆新王者の誕生と苦難 アジア杯の終了後、カルデロン監督はすぐに南アフリカW杯の準備に入った。2007年10月の1次予選ではネパールに連勝して3次予選2組に進んだが、2008年2月6日、マスカットでの初戦に監督はベンチ入りせず、マチャラ指揮のバーレーンに0-1と敗れた。続くアウェーのタイ戦では警告10枚、退場1人で大荒れながら1-0と勝ったが、ここでカルデロン監督は解任され、ウルグアイ人のフリオ・リバスが後任となった。3次予選は同年6月に4試合の集中開催だったが、日本との連戦では1分1敗に終わり(6月2日は横浜で0-3、6月7日にはマスカットで1-1)、6月14日の最終戦にはアウェーでバーレーンに1-1と引き分けてW杯への道が断たれた。 しかしオマーンは次回のガルフ杯開催国だったため、強化のペースは落ちなかった。サッカー協会はリバスを解任し、同年のアフリカネーションズ杯でガーナを3位にしたフランス人のクロード・ルロワと契約し、各国を次々とマスカットに招いて親善試合を積んだ。2009年1月のガルフ杯では17日の決勝でサウジアラビアをPK戦で下し(延長含め0-0、PK)、第19回大会での初優勝をホームで飾った。2年前のアジア杯王者のイラクからハットトリックを決め、準決勝のカタール戦でもこの試合唯一のゴールを記録したハッサン・ラビアが合計4ゴールで得点王になったが、何より全5試合480分間を無失点で終えた、アル=ハブシを軸とした守備の堅さが、オマーンに栄光をもたらした。 ただし2日後、オマーンは2011年アジア杯予選B組の初戦でインドネシアと0-0と引き分けた。このつまづきは痛く、その後のオーストラリア戦に連敗し、2010年5月3日の最終戦ではホームでクウェートと0-0に終わったオマーンは3大会ぶりに本大会出場を逃した。2009年6月には初の欧州遠征を行ってフランスのカンヌでボスニア・ヘルツェゴビナと対戦(1-2、ボスニアは同年9月にトルコとのW杯予選を控えていた)、11月にはホームでのブラジル戦も実現したが(0-2/ニウマール、OG)、成長の過程で直面する日程の苛酷化にはまだ対応できていなかった。 アジア杯予選後、タイトル防衛を賭ける11月のガルフ杯に向けてオマーンは開催国イエメンへの遠征を含め再び積極的に強化したが、本大会では3試合全て引き分け、ゴールはバーレーン戦でのアル=ホスニの1つだけという得点力不足でグループリーグ敗退となった。ルロワ監督が国際大会で指揮を執ったのはこれが最後となった。 ☆ブラジルW杯への挑戦 2011年7月、シリア代表監督へ転出したルロワの後任に南アフリカW杯でカメルーン代表監督だったポール・ルグエンを招き、オマーンは再びW杯への挑戦を始めた。ミャンマーと対戦したブラジル大会のアジア2次予選では、アウェーの第2戦が試合中の観客暴動で打ち切りとなったが、その時点で既に2戦合計4-0とリードし、突破を確実にしていた。9月からの3次予選D組ではホーム・シーブでサウジアラビアとスコアレスドロー、続くタイとオーストラリアのアウェー戦を0-3で連敗し窮地に立ったが、ここでチームは立ち直り、最終節のタイ戦勝利でサウジアラビアを抜く2位通過を決めた。そして、最終予選B組では6月3日の初戦(埼玉)で日本に0-3と完敗したものの、次のホーム初戦でオーストラリアと0-0で引き分け、その後の中東対決ではイラク戦(中立地のカタール・ドーハ開催、1-1)とヨルダン戦(ホーム開催、2-1)を1勝1分とし、日程を半分消化した現時点でオーストラリアと並ぶ勝ち点5を挙げている。 もし14日、強い自信を持っているマスカットでの試合で日本に勝てば勝ち点差を2に詰め、2位争いでも他国に一歩先んじる。8日にはエストニアを招いて親善試合を行い、アブドゥル・アルマクバリのゴールで先制した後の終盤に1-2での逆転負けを喫したが、この重要な一戦に向けて準備を着々と進めている。 ☆数字で見るオマーン躍進の理由 このように、オマーン代表の戦績を歴史的にまとめてみたが、この軌跡を資料から分析する事ができる。 <図1>FIFA.comによるオマーン代表の国際試合結果(1974-2012年) 出典:FIFA.comの各国代表試合結果データベース。2012年11月8日現在。注記:2011年に行われたブラジルW杯2次予選のミャンマー戦は試合中断扱いとなり、勝敗は記録されていない。そのため、全試合数と勝分敗の合計数には1試合のずれが生じる。 <図1>は、FIFA.comで紹介されているオマーン代表の過去の国際試合について、その勝敗を試合数で示したものである。なお、ガルフ杯の有無などで年変動が大きいため、W杯を規準とし、その予選が終了する大会開催前年までを区切りとし、4年ごとにまとめた。 オマーン代表は1974年からの38年間で367試合を行い、127勝92分147敗(同点後のPK戦による決着は引き分け扱い、他に中断1試合)の記録を残している。既に見たように1980年代までは強豪揃いの湾岸諸国に苦しめられ、アジア杯予選などで対戦する東南アジア・南アジア諸国に勝てる程度だったのが、ベングロシュ監督によって本格的な強化が始められた1996年を含む1994年以降に勝利数が急造した事が分かる。また試合数も年平均5試合程度から2倍以上になり、これがマチャラ時代の躍進や2009年のガルフ杯優勝につながった事が想定できる。 <図2>FIFA.comによるオマーン代表の国際試合相手(1974-2012年) 出典:<図1>と同じ。注記:「湾岸諸国」は現在ガルフ杯に参加する8ヶ国を指す(イエメンを含む)。「西アジア」は西アジアサッカー連盟の加盟国(イラン、シリア、ヨルダン、レバノンなど)を指す。「他アジア」は湾岸諸国・西アジア以外のAFC加盟国を指す。なお、オーストラリアはAFC転属前には対戦機会はなかった。「大洋州」はOFC加盟国を指す(5試合は全てニュージーランドとの対戦)。CONCACAF加盟国との対戦経験はない。 オマーンの対戦国を地域別に分類したのが<図2>であるが、ここでも1996年以降の大きな変化が示されている。それまでのオマーンはガルフ杯の参加、ないしそれに向けた準備に専念する傾向が強く、対戦国も湾岸諸国か近接する西アジア諸国にほぼ限定されていた。当時は湾岸諸国やイランがアジア代表としてW杯本大会に進む事も多かったため、外に目を向ける発想は乏しかった。しかしベングロシュによる改革はこのマッチメークにも及び、歴史的にも関係の深い東アフリカ諸国、さらに欧州や南米にも広く対戦相手を求めるようになった。AFCがフランスW杯最終予選を機にホームアンドアウェー制を積極的に導入した外的要因もあり、日本などの東アジアとの対戦も増えていった。 <図3>オマーン・バーレーン・日本各国代表の国際試合数(棒グラフ、左軸)とホーム開催率(折れ線グラフ、右軸)(1974-2012年) 出典:<図1>と同じ。 <図3>はオマーン代表の国際試合数、およびそのホーム(自国内)開催率について、同じ湾岸地域で共通項の多いバーレーン、そして日本と比較したものである。1996年以降に起きたオマーンの国際試合の急増はホームゲームの増加、即ち外国の代表チームをマスカットに招いて実現した事が分かる。オマーン・バーレーン両国のホーム開催率はガルフ杯の主催の有無で変動し(オマーンは1984・1996・2009年、バーレーンは1970(図3の範囲外)・1986・1998年に開催国となり、次回の第21回大会は2013年にバーレーンで開催予定)、日本も2002年のW杯開催という特殊事情はあったが、オマーンの数字が比較的安定して高い事は確かで、「欧州や南米での経験が必要」としばしば指摘される日本代表にも匹敵する時期が多い。UAEやサウジアラビアほどではないとしても、国民を無税にできる程度の豊富な石油収入を活用した「誘致型」の強化策が実りつつある。 ☆将来の不安材料 しかし、W杯出場が徐々に近づいてきたオマーンも、まだまだ問題点を多く持っている。 その一つは国内リーグの貧弱さである。居住人口がサウジアラビアの10分の1と少なく、石油産出量もUAEやカタールには及ばないため外国のスター選手を獲得する資金がないオマーンでは、国内リーグはアマチュアとして運営されてきた。2006年に日本と対戦した際、既にリンへ移籍していたアル=ハブシがかつては消防士だったというニュースを記憶されている読者の方もいるだろう。そのため、代表選手が高レベルの試合を経験するにはサウジアラビアやUAEのクラブへ移籍するしかなく、そこからさらに欧州進出を果たすのは至難の業である。実際、長年のエースFW、アル=ホスニはサウジの強豪アル=アハリに所属するが、今度の日本戦に向けた招集メンバーとして伝えられるリストの中で、オマーン国外のクラブに所属するのはサウジの3人とUAEの1人、それに唯一の「欧州組」としてウィガンにいるアル=ハブシだけで、残りはオマーンリーグでプレーする。アマチュアリーグのままではACL参加も不可能なため、オマーンサッカー協会もリーグ改革を行い、2012-13シーズンからスポンサーを付けてプロ化に踏み切ったが、その道は険しく、まだまだ外国の力を借りる必要がある。クウェートの戦乱、UAEの低迷、サウジの衰退などで激変する中東サッカーで新興勢力の象徴となったオマーンだが、その躍進はある意味相対的で、安定してはいない。 また、オマーンの国家全体としてカブース国王の問題がある。オマーンの近代化と繁栄を導いた絶対君主として君臨し、マスカットのスタジアムにもその名前が冠されているが、宮廷革命から既に42年が過ぎ、イギリス帰りの青年スルタンも70歳を過ぎた。しかもカブース国王は離婚して子どもがいないため、中東全体の民主化の動向と併せて後継者問題がかつての内乱を再燃させる危険性すらある。オマーンの原油資源は元々少ない上、その価格は国際環境の変化や技術開発で乱高下するため、豊富な資金力を生かした振興策がいつまで続けられるかは不透明である。 ただ、若年層の強化も徐々に成果が出始めているのは朗報である。U-23代表で臨む五輪予選では、北京大会の時は最終予選にすら進めなかったが、ロンドン大会では最終予選A組でサウジを抑え韓国に次ぐ2位となり、大陸間プレーオフまで進んだ(セネガルに敗北)。今回の日本戦に向けた代表でもこの年代の選手が10人選ばれ、最年少のワリード・アル=サーディは17歳で既に代表出場歴を持っている。一方、アル=ハブシもGKとしては脂の乗った30歳になり、ウィガンでの定位置を確保している。 フル代表で大きな成功を収め、それを若手に引き継ぐ事ができるか、オマーンサッカーの未来がこの日本戦と最終予選全体にかかっている。 <出典> 1 "BP Statistical Review of World Energy", June 2012(PDF) 筆者名 中西 正紀 プロフィール サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。 ホームページ RSSSF ツイッター @Komabano Facebook masanori.nakanishi {module [170]} {module [171]} {module [190]} 【厳選Qoly】インドネシアの帰化候補「150人超」に対し…帰化して日本代表になった7名 RELATED TAGS コラム (869) オマーン (65) ワールドカップ2014 (1189) 日本代表 (5050)
Qoly読者の皆さん、こんにちは。私が所属するRSSSFでは世界中のサッカーに関するあらゆる情報を集めています。その中には当然日本の情報もありますし、オマーンの情報もあります。そこでQolyでのコラムの第2回では、オマーンという国の成り立ちにも触れながら、そのサッカーの歴史を振り返り、成長の理由を分析していきます。 ☆比較的安定したスルタン支配 アラビア半島の南東部にあるオマーンには古くからイスラム教徒のアラブ人が住んでいる。今の国家の原型は17世紀に発展を始め、19世紀には商業活動を通じて現在のパキスタンからタンザニア(ザンジバル)にかけてのインド洋沿岸地域を広く支配する海上帝国を作ったが、イギリスに海上覇権を奪われると衰退し、1891年にイギリスの保護国となった。 第二次大戦後にイギリスが衰える中、オマーンは自治権を確保する一方で対外的には鎖国政策を採っていたが、1970年にカブース・ビン=サイードが父を追放する宮廷革命に成功して自らスルタン(国王)となると1971年に国連へ加盟し、内乱を鎮めて国際社会へ参加した。以後、国家基本法の制定や諮問議会の設置などを進めながら、基本的にはカブース国王が統治する絶対君主制を維持している。 独立後のオマーンを支えているのは石油と天然ガスだが、2011年の原油生産量は4210万トンで世界の1.1%、天然ガスは265億立方メートルで同0.8%に過ぎず(出典1)、OPEC(石油輸出国機構)にも加盟していない。ただし広島県(都道府県12位)とほぼ同じ287万(2008年データ、2010年IMF調べ)の人口を支えるには十分で、GDPは2万ドルを超えてチェコやポルトガルとほぼ並び、豊かな国を作ってきた。この「適度な生産力」は外国人労働力への過剰な依存を回避し、湾岸諸国で発生している社会不安の危険性を減らした。王族を含むオマーンの主流派が他宗派に寛容なイバード派な事もあり、「世界平和度指数」でも中東ではカタールに次いで高い。 ☆湾岸諸国の壁 このように緩やかながら堅実な発展を続けたオマーンの国情は、そのサッカー代表チームにも反映された。 RSSSFによると、オマーン代表として初の国際試合は「鎖国時代」の1965年8月にエジプトで行われたパンアラブ競技大会である。しかし初戦でスーダンに0-15となり、その後も北イエメンに1-2だった以外はリビアに1-15(ただし、これがオマーンの初ゴール)、シリアに0-13の大惨敗となり、翌1966年にはイラクに0-21と同国史上最悪の結果を記録して姿を消した。 カブース体制になって代表チームが復帰したのは1974年、第3回大会で初参加となったガルフ杯だった。FIFAではこれを最初の国際Aマッチと認定している。1976年の第4回大会ではUAEに対して1-1と初の引き分けに持ち込み、以後1984年第7回大会の自国開催(首都マスカットの王立オマーンポリススタジアムを使用)を含めて1988年まで7大会連続最下位、1990年に初めて5チーム中4位の後は再び1996年の自国開催まで3大会連続最下位と厚い壁に阻まれながらも、アジアの中ではレベルの高いペルシャ湾岸のアラブ諸国と試合を重ねてきた。 その中でオマーンの実力と環境は確実に整備され、1978年に設立されたオマーンサッカー協会は1979年にAFC、1980年にFIFAに加盟して本格的にフットボールファミリーの仲間入りをした。1984年9月24日には初参加のアジア杯予選でネパールを8-0で下し国際Aマッチに初勝利した(サウジアラビアのジェッダで開催)。ただし、FIFA.comのデータベースでは1982年2月17日、パキスタンのカラチでの親善試合でバングラデシュに3-1で勝った試合を初勝利と紹介している。 1986年には敵地の親善試合でバーレーンに3-2で勝利し初めて湾岸諸国を撃破。9月に韓国で行われたアジア大会にも出場してパキスタンを破り、UAEとタイには引き分けた(ベスト8進出はならず)。また、1985年10月にはマスカットに収容人数4万人(現在では3万3000人に変更)の国立多目的競技場、スルタン・カブース・スポーツコンプレックスが開場し、オマーン国内での国際試合開催が安定して可能になった(以後、特記のない場合は、オマーン国内での試合会場は同スタジアム)。1994年にはアメリカW杯前に同大会でベスト4に入るブルガリアを招いて親善試合も行い(1-1)、広島でのアジア大会にも参加するなど、徐々にオマーン代表の試合数が増えた。 横山謙三監督が率いる日本代表との初対戦はこの時期の1988年2月2日で、マスカットでの試合では終盤に前田治の代表初ゴールを許し1-1と引き分けた。その後、同年3月のガルフ杯でオマーンは参加7回、36試合目で同大会初勝利を挙げた(カタールに2-1)。 ☆躍進の始まり オマーン代表の転機は1996年だった。後にジェフ市原を率いたスロヴァキア出身のジョゼフ・ベングロシュ監督のチームは6月のアジア杯予選ではイランに2敗して敗退、10月のガルフ杯では既述の通り最下位となったが、前者ではネパールとスリランカ相手に4戦4勝、後者でもUAEとバーレーンに引き分け5試合で勝ち点2を獲得した。その前後の親善試合ではマリやモザンビーク、さらにニュージーランドまでマスカットに招き、オマーンに欠けていた国際経験を豊富に積んだ。以後、オマーン代表は毎年国際試合を行っている。 1997年もベングロシュ監督は残り、フランスW杯1次予選では4組で加茂監督の日本と対戦し、マスカットでの3月23日は小村徳男の得点で0-1と敗れ、得失点差の関係で最終予選進出が絶望的だった6月28日(東京・国立)には中田英寿にゴールを許したが1-1と引き分けた。同予選でもネパールやマカオとの4試合は全勝で終えている。 同年限りでベングロシュは辞任し、後任監督が未定の1998年2月18日には初めて世界のトップクラスとの勝負となるドイツ戦をホームで行い、0-2で敗れた。3月にはイランを前年の予選でW杯に導いたバドゥ・ヴィエイラを新監督とし、ガルフ杯ではカタール(2-1で勝利)・バーレーン(2-2で引分)を上回って史上最高の4位に入り、アジア大会予選では初進出の2次予選でW杯出場国のイランを破った。ただし、1999年のアジア杯予選ではイラクとキルギスに敗れ本大会出場を逃している。 2000年代に入ってもオマーンは国外の指導者を招いて積極的な強化を進めた。2001年、クウェートでガルフ杯2連覇のスロヴァキア人、ミラン・マチャラを新監督に招くと、4-5月の日韓W杯アジア1次予選1組を5勝1分で突破した(シリアとのアウェー戦のみ引き分け、他はラオス・フィリピンと同組)。8-10月の最終予選B組は旧東ドイツ出身のベルント・シュタンゲ監督で臨み、ホームの中国戦とアウェーのウズベキスタン戦に連敗すると自国人のラシード・ジャベルに交代したが、結果は勝ち点6で最下位となった(中国が本大会出場)。ただし、ホームではウズベキスタンに勝ち、UAE戦2試合とアウェーのカタール戦に引き分けるなど後半には立て直し、初めてオマーンのW杯出場が現実の可能性を持った。2002年1月のガルフ杯では5位に後退したが、初めてクウェートに勝っている。 ☆マチャラ時代 2003年、マチャラが監督に復帰すると快進撃が再開され、9-10月のアジア杯予選で前年のW杯ベスト4の韓国をマスカットで倒し、同予選1位で初の本大会進出を果たした。また、この年にはGKアリ・アル=ハブシがノルウェー1部のリンに移籍し、初めて欧州のプロリーグでプレーするオマーン人となった。年末から2004年1月にかけ行われたアジア杯では4位になった。 2004年にはジーコジャパンと3試合対戦したが、いずれも0-1で敗れた。2月(埼玉)と10月(マスカット)はドイツW杯アジアの1次予選3組、7月(中国・重慶)はアジア杯本大会のグループリーグだったが、オマーンはいずれも突破に失敗した。ただ、アジア王者の日本への善戦は12月のガルフ杯へつながり、準決勝でバーレーンを3-2で下し、決勝でホスト国のカタールに延長戦後のPK戦で敗れたが(1-1、PK4-5)、過去最高位の準優勝となった。バーレーン戦の2得点はアジア杯のイラン戦(2-2)でも2ゴールを決めたFWアマド・アル=ホスニで、同年夏にイングランド・プレミアリーグのボルトンへ移籍していたアル=ハブシと共にその後長くオマーン代表の中心となった。 2006年もオマーンはマチャラが指揮し、アジア杯予選を突破して2大会連続の本大会出場を決めた(出場決定後の最終節でUAEに敗れC組2位通過)。しかし、2007年7月の本大会ではマチャラがバーレーン代表へ移り、アルゼンチン人のガブリエル・カルデロンを監督に迎えたオマーンはグループリーグA組でホームのタイに0-2で敗れ、前年W杯ベスト16のオーストラリアには引き分けたが、最下位で大会を去った。オマーンの実力は確実に向上したが、まだ「マチャラマジック」に頼る部分が多かったともいえる。 ☆新王者の誕生と苦難 アジア杯の終了後、カルデロン監督はすぐに南アフリカW杯の準備に入った。2007年10月の1次予選ではネパールに連勝して3次予選2組に進んだが、2008年2月6日、マスカットでの初戦に監督はベンチ入りせず、マチャラ指揮のバーレーンに0-1と敗れた。続くアウェーのタイ戦では警告10枚、退場1人で大荒れながら1-0と勝ったが、ここでカルデロン監督は解任され、ウルグアイ人のフリオ・リバスが後任となった。3次予選は同年6月に4試合の集中開催だったが、日本との連戦では1分1敗に終わり(6月2日は横浜で0-3、6月7日にはマスカットで1-1)、6月14日の最終戦にはアウェーでバーレーンに1-1と引き分けてW杯への道が断たれた。 しかしオマーンは次回のガルフ杯開催国だったため、強化のペースは落ちなかった。サッカー協会はリバスを解任し、同年のアフリカネーションズ杯でガーナを3位にしたフランス人のクロード・ルロワと契約し、各国を次々とマスカットに招いて親善試合を積んだ。2009年1月のガルフ杯では17日の決勝でサウジアラビアをPK戦で下し(延長含め0-0、PK)、第19回大会での初優勝をホームで飾った。2年前のアジア杯王者のイラクからハットトリックを決め、準決勝のカタール戦でもこの試合唯一のゴールを記録したハッサン・ラビアが合計4ゴールで得点王になったが、何より全5試合480分間を無失点で終えた、アル=ハブシを軸とした守備の堅さが、オマーンに栄光をもたらした。 ただし2日後、オマーンは2011年アジア杯予選B組の初戦でインドネシアと0-0と引き分けた。このつまづきは痛く、その後のオーストラリア戦に連敗し、2010年5月3日の最終戦ではホームでクウェートと0-0に終わったオマーンは3大会ぶりに本大会出場を逃した。2009年6月には初の欧州遠征を行ってフランスのカンヌでボスニア・ヘルツェゴビナと対戦(1-2、ボスニアは同年9月にトルコとのW杯予選を控えていた)、11月にはホームでのブラジル戦も実現したが(0-2/ニウマール、OG)、成長の過程で直面する日程の苛酷化にはまだ対応できていなかった。 アジア杯予選後、タイトル防衛を賭ける11月のガルフ杯に向けてオマーンは開催国イエメンへの遠征を含め再び積極的に強化したが、本大会では3試合全て引き分け、ゴールはバーレーン戦でのアル=ホスニの1つだけという得点力不足でグループリーグ敗退となった。ルロワ監督が国際大会で指揮を執ったのはこれが最後となった。 ☆ブラジルW杯への挑戦 2011年7月、シリア代表監督へ転出したルロワの後任に南アフリカW杯でカメルーン代表監督だったポール・ルグエンを招き、オマーンは再びW杯への挑戦を始めた。ミャンマーと対戦したブラジル大会のアジア2次予選では、アウェーの第2戦が試合中の観客暴動で打ち切りとなったが、その時点で既に2戦合計4-0とリードし、突破を確実にしていた。9月からの3次予選D組ではホーム・シーブでサウジアラビアとスコアレスドロー、続くタイとオーストラリアのアウェー戦を0-3で連敗し窮地に立ったが、ここでチームは立ち直り、最終節のタイ戦勝利でサウジアラビアを抜く2位通過を決めた。そして、最終予選B組では6月3日の初戦(埼玉)で日本に0-3と完敗したものの、次のホーム初戦でオーストラリアと0-0で引き分け、その後の中東対決ではイラク戦(中立地のカタール・ドーハ開催、1-1)とヨルダン戦(ホーム開催、2-1)を1勝1分とし、日程を半分消化した現時点でオーストラリアと並ぶ勝ち点5を挙げている。 もし14日、強い自信を持っているマスカットでの試合で日本に勝てば勝ち点差を2に詰め、2位争いでも他国に一歩先んじる。8日にはエストニアを招いて親善試合を行い、アブドゥル・アルマクバリのゴールで先制した後の終盤に1-2での逆転負けを喫したが、この重要な一戦に向けて準備を着々と進めている。 ☆数字で見るオマーン躍進の理由 このように、オマーン代表の戦績を歴史的にまとめてみたが、この軌跡を資料から分析する事ができる。 <図1>FIFA.comによるオマーン代表の国際試合結果(1974-2012年) 出典:FIFA.comの各国代表試合結果データベース。2012年11月8日現在。注記:2011年に行われたブラジルW杯2次予選のミャンマー戦は試合中断扱いとなり、勝敗は記録されていない。そのため、全試合数と勝分敗の合計数には1試合のずれが生じる。 <図1>は、FIFA.comで紹介されているオマーン代表の過去の国際試合について、その勝敗を試合数で示したものである。なお、ガルフ杯の有無などで年変動が大きいため、W杯を規準とし、その予選が終了する大会開催前年までを区切りとし、4年ごとにまとめた。 オマーン代表は1974年からの38年間で367試合を行い、127勝92分147敗(同点後のPK戦による決着は引き分け扱い、他に中断1試合)の記録を残している。既に見たように1980年代までは強豪揃いの湾岸諸国に苦しめられ、アジア杯予選などで対戦する東南アジア・南アジア諸国に勝てる程度だったのが、ベングロシュ監督によって本格的な強化が始められた1996年を含む1994年以降に勝利数が急造した事が分かる。また試合数も年平均5試合程度から2倍以上になり、これがマチャラ時代の躍進や2009年のガルフ杯優勝につながった事が想定できる。 <図2>FIFA.comによるオマーン代表の国際試合相手(1974-2012年) 出典:<図1>と同じ。注記:「湾岸諸国」は現在ガルフ杯に参加する8ヶ国を指す(イエメンを含む)。「西アジア」は西アジアサッカー連盟の加盟国(イラン、シリア、ヨルダン、レバノンなど)を指す。「他アジア」は湾岸諸国・西アジア以外のAFC加盟国を指す。なお、オーストラリアはAFC転属前には対戦機会はなかった。「大洋州」はOFC加盟国を指す(5試合は全てニュージーランドとの対戦)。CONCACAF加盟国との対戦経験はない。 オマーンの対戦国を地域別に分類したのが<図2>であるが、ここでも1996年以降の大きな変化が示されている。それまでのオマーンはガルフ杯の参加、ないしそれに向けた準備に専念する傾向が強く、対戦国も湾岸諸国か近接する西アジア諸国にほぼ限定されていた。当時は湾岸諸国やイランがアジア代表としてW杯本大会に進む事も多かったため、外に目を向ける発想は乏しかった。しかしベングロシュによる改革はこのマッチメークにも及び、歴史的にも関係の深い東アフリカ諸国、さらに欧州や南米にも広く対戦相手を求めるようになった。AFCがフランスW杯最終予選を機にホームアンドアウェー制を積極的に導入した外的要因もあり、日本などの東アジアとの対戦も増えていった。 <図3>オマーン・バーレーン・日本各国代表の国際試合数(棒グラフ、左軸)とホーム開催率(折れ線グラフ、右軸)(1974-2012年) 出典:<図1>と同じ。 <図3>はオマーン代表の国際試合数、およびそのホーム(自国内)開催率について、同じ湾岸地域で共通項の多いバーレーン、そして日本と比較したものである。1996年以降に起きたオマーンの国際試合の急増はホームゲームの増加、即ち外国の代表チームをマスカットに招いて実現した事が分かる。オマーン・バーレーン両国のホーム開催率はガルフ杯の主催の有無で変動し(オマーンは1984・1996・2009年、バーレーンは1970(図3の範囲外)・1986・1998年に開催国となり、次回の第21回大会は2013年にバーレーンで開催予定)、日本も2002年のW杯開催という特殊事情はあったが、オマーンの数字が比較的安定して高い事は確かで、「欧州や南米での経験が必要」としばしば指摘される日本代表にも匹敵する時期が多い。UAEやサウジアラビアほどではないとしても、国民を無税にできる程度の豊富な石油収入を活用した「誘致型」の強化策が実りつつある。 ☆将来の不安材料 しかし、W杯出場が徐々に近づいてきたオマーンも、まだまだ問題点を多く持っている。 その一つは国内リーグの貧弱さである。居住人口がサウジアラビアの10分の1と少なく、石油産出量もUAEやカタールには及ばないため外国のスター選手を獲得する資金がないオマーンでは、国内リーグはアマチュアとして運営されてきた。2006年に日本と対戦した際、既にリンへ移籍していたアル=ハブシがかつては消防士だったというニュースを記憶されている読者の方もいるだろう。そのため、代表選手が高レベルの試合を経験するにはサウジアラビアやUAEのクラブへ移籍するしかなく、そこからさらに欧州進出を果たすのは至難の業である。実際、長年のエースFW、アル=ホスニはサウジの強豪アル=アハリに所属するが、今度の日本戦に向けた招集メンバーとして伝えられるリストの中で、オマーン国外のクラブに所属するのはサウジの3人とUAEの1人、それに唯一の「欧州組」としてウィガンにいるアル=ハブシだけで、残りはオマーンリーグでプレーする。アマチュアリーグのままではACL参加も不可能なため、オマーンサッカー協会もリーグ改革を行い、2012-13シーズンからスポンサーを付けてプロ化に踏み切ったが、その道は険しく、まだまだ外国の力を借りる必要がある。クウェートの戦乱、UAEの低迷、サウジの衰退などで激変する中東サッカーで新興勢力の象徴となったオマーンだが、その躍進はある意味相対的で、安定してはいない。 また、オマーンの国家全体としてカブース国王の問題がある。オマーンの近代化と繁栄を導いた絶対君主として君臨し、マスカットのスタジアムにもその名前が冠されているが、宮廷革命から既に42年が過ぎ、イギリス帰りの青年スルタンも70歳を過ぎた。しかもカブース国王は離婚して子どもがいないため、中東全体の民主化の動向と併せて後継者問題がかつての内乱を再燃させる危険性すらある。オマーンの原油資源は元々少ない上、その価格は国際環境の変化や技術開発で乱高下するため、豊富な資金力を生かした振興策がいつまで続けられるかは不透明である。 ただ、若年層の強化も徐々に成果が出始めているのは朗報である。U-23代表で臨む五輪予選では、北京大会の時は最終予選にすら進めなかったが、ロンドン大会では最終予選A組でサウジを抑え韓国に次ぐ2位となり、大陸間プレーオフまで進んだ(セネガルに敗北)。今回の日本戦に向けた代表でもこの年代の選手が10人選ばれ、最年少のワリード・アル=サーディは17歳で既に代表出場歴を持っている。一方、アル=ハブシもGKとしては脂の乗った30歳になり、ウィガンでの定位置を確保している。 フル代表で大きな成功を収め、それを若手に引き継ぐ事ができるか、オマーンサッカーの未来がこの日本戦と最終予選全体にかかっている。 <出典> 1 "BP Statistical Review of World Energy", June 2012(PDF) 筆者名 中西 正紀 プロフィール サッカーデータベースサイト「RSSSF」の日本人メンバー。Jリーグ発足時・パソコン通信時代からのサッカーファン。FIFA.comでは日本国内開催のW杯予選で試合速報を担当中。他に歴史・鉄道・政治などで執筆を続け、「ピッチの外側」にも視野を広げる。思う事は「資料室でもサッカーは楽しめる」。 ホームページ RSSSF ツイッター @Komabano Facebook masanori.nakanishi {module [170]} {module [171]} {module [190]} 【厳選Qoly】インドネシアの帰化候補「150人超」に対し…帰化して日本代表になった7名