将棋の棋士は対局中に、「相手と会話をしているような感覚」に陥ることがあるという。現在将棋連盟の会長を務める谷川浩司9段は、この「頂点に近づいたもの」だけの感覚について著書の中で「棋士たちは対局を通して盤上で会話をしています。トップになれば会話の内容も豊富ですし、限られた人だけが理解できる世界なのです。その環境にできるだけ長くいたいと思っています」と描写した。筆者のような凡人には知ることの出来ない世界ではあるが、フットボールの指揮官同士もそういう経験をしているのかもしれない。

北ロンドンの2チームのダービーは、イングランドではあまり見ない系統の試合だった。熱狂的なファンも多いフットボールの聖地では(スコットランドの人々は、聖地はスコットランドだと強調しているが)、「お互いのチームのスタイル」を全面に押し出したような激しい鍔迫り合いになることが多い。特に同格の相手との試合でそういった傾向が顕著に出る事から、プレミアではここ数シーズン何かをきっかけとして一気に均衡が崩れ、大差になってしまう試合も少なくない。なかなか他リーグでは見ることが出来ないようなスコアが、上位陣同士の試合でも散見されるのは、ある意味で近年のプレミアリーグのトレンドだ。

野球では打者の質が高く、投手の質が低いことで打撃戦が多くなることを「打高投低」と表現したりもするが、まさにそういった状態になっているという見方も出来るだろう。下位クラブであっても放映権によって潤沢な資金を持ち、海外から各国代表クラスのタレントを前線に輸入するリーグになっているプレミアリーグでは、エースストライカーが相手の守備陣をまるで紙切れのように容赦なく引き裂いていくことも少なくない。世界的に質の高いDFは不足していると言われることもあるように、現代サッカーのトレンドもプレミアの状況を後押ししている。

しかし、意外にもノースロンドンダービーは、そんなイングランド・フットボールの熱狂的な空気感から抜け出したような試合になった。トッテナムの指揮官マウリシオ・ポチェッティーノが「アーセン・ヴェンゲルを見習い、長期政権を目指したい」と試合前にコメントしたことからもわかるように、彼はアーセナルの指揮官を高く評価していた。だからこそ、彼は自分の哲学を貫くだけでなく、柔軟にアーセナルに合わせて戦術を組みかえたのだ。

若きアルゼンチン人指揮官ポチェッティーノがアーセン・ヴェンゲルのフットボールをしっかりと研究し、礼儀を尽くして戦術を練り、美しい便箋に入れた手紙を送る。アーセン・ヴェンゲルも隣人からの手紙をしっかりと読み込み、フランス人らしく優雅な手書きで返信を綴る。目を閉じれば、そんな絵が浮かんでくるような。

本コラムでは、静かな戦術のぶつかり合いとなったノースロンドンダービーを通して、互いにどのように相手の長所を封じようとしていたのかを読み解いていく。今回は「アストン・ヴィラ戦でのアーセナルの戦術をポチェッティーノが綿密に研究していたから、トッテナムがこういった戦術を選択することが出来た」という仮説に基づいて分析を進めている事から、前回のコラム『 アーセナルから学ぶ「前プレ攻略法」。』と合わせてお読みいただけると理解が深まるはずだ。

中央の補填、見えたトッテナムの工夫。

これは左サイド寄りからにボールがあることから、逆サイドのエリクセン(白の一番手前の選手)が中央に絞っている場面だ。3センターに近い形で中央を補填し、相手の中央からの攻撃を抑える意識が高いことが伺える。このようにトッテナムは前からのプレスというよりは、相手を待ち構えるように中央を抑えていった。

トッテナムはこのように、中央をラメラとエリクセンの両サイドハーフで補填していくような形でアーセナルを抑え込むスタイルを志向した。この理由としては、アストン・ヴィラ戦のように「サイドアタッカーのチェンバレンが中央に加わることで前からのプレスに対して中央で数的有利を作り出すこと」を防止する狙いがあったと考えられる。両サイドのアタッカーを中央に絞って守備に参加させることによって、3センターでさえも崩されてしまったアーセナルの中央での崩しに「状況によっては4人を動員する」ことで対抗する。これはアトレティコ・マドリードが昨シーズンに好んで使っていた形に近く、中央が甘くなりやすい4-4ゾーンの弱点を両脇のサイドアタッカーによって補強するものだ。

実際、下の図を見れば一目瞭然。スパーズは、サイドハーフが絞って中央を固めたことによって、サイドハーフとボランチの間辺りのゾーンで何度となくインターセプトに成功している。(データは Squawka.comより)

個々の負担が大きくなることから、状況によってはシャドリが中盤をサポートに加わるような形も見られたように、トッテナムは全員が献身的に走り回ることによってアーセナルの攻撃を妨害し続けた。妨害するだけにとどまらず、隙があれば前からのプレッシャーも忘れない。更に、この中央での潰しはアーセナルの攻撃力を下げる意味でもう一つの罠が隠されていた。

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