8月7日、『Chronicle Live』は「ディナモ・キエフからサンダーランドに移籍したオランダ代表MFイェレマイン・レンスは、ウクライナで感じた戦争の脅威について話した」と報じた。


2013年にPSVアイントホーフェンを離れ、ディナモ・キエフに移籍したレンス。その半年後にキエフの独立広場で紛争が発生し、その後ウクライナは親ロシア派武装勢力との内戦に突入していった。

東部地域は特に治安状況が悪化し、シャフタール・ドネツクなどのクラブは拠点を首都キエフに移すなどの措置を執らざるを得なくなり、その状況はまだ回復していない。

二年間を混乱のウクライナで過ごすことになったレンスは、また家族と一緒に住みたかったと話し、イングランドへ移籍することは簡単な決断だったと答えた。

イェレマイン・レンス

「僕がディナモ・キエフに行ったときは普通の状態だったんだ。しかし、その半年後に政治情勢が変わった。そして、ロシアで戦争が起こった。それが全てを変えたんだ。

戦争が始まってから一年半、僕は一人で暮らしていた。家族にはウクライナに来て欲しくなかったんだ。政治情勢が変わったとき、家族には『オランダに残れ』と伝えた。

それは厳しい決定だった。自分にとってはベストな時間ではなかったし、家族にとってもそうだ。でも、ピッチの中ではプロとしてうまくやれたと思う」

「(マレーシア機撃墜事件は?)

飛行機が打ち落とされた時のことはとてもよく覚えている。とても怖かった。あの飛行機はアムステルダムを飛び立って、そして東ウクライナを通り、撃墜された。

恐ろしい時間だった。まさに戦争がだんだんキエフに近づいてきているように感じたんだ。もちろん、僕はウクライナに戻るときもオランダから飛び立った。僕や家族に起こり得ることを想像すると怖かった。最初に飛んだときは本当にね。

クラブや人々はとても良くしてくれて、全ては安全だと約束してくれた。彼らは僕を引き留めた。でも僕は危機は去ったという風には感じることが出来なかった。その夏は全く違うものだったし、好ましいものではなかった。

相当なショックがあった。代理人やクラブの人々と話すことに多くの時間を費やした。自分の反応は『もうここには戻りたくない』だった。

契約はまだ3年残っていた。仕事はしなければならない。しかしその一方で、家族についても考えなければならなかった」

「(残りの仕事に戻った後について)

僕が戻ったことは、ディナモ・キエフのファンにとっては重要だったと思う。しかし、状況はとても奇妙だった。

東部地域のクラブにいる選手、例えばシャフタール・ドネツクなどはすぐに拠点を移動しなければいけなかった。

戦争はキエフで始まり、それは東側に移っていった。東部地域に拠点を置いているクラブの選手達に危険が迫り、彼らはキエフへ引っ越さなければならなくなった。

それは既にキエフに住んでいる僕には厳しくはなかったよ。でも、彼らはわずか一晩のうちに街を離れなければならなくなったんだ。

誰もがホテルで18ヶ月間を過ごすか、あるいは新しいアパートを借りる必要があった。そして彼らは全て失っていた。とても酷いもので、非常に厳しい環境だった。自分に降りかかったものの何倍もね」

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