パリ五輪では日本代表は予選にあたるU23アジアカップを勝ち進み、無事決勝進出を決めて出場権を獲得した。
五輪は原則的に23歳以下の選手で行なわれ、オーバーエイジと言われる3人の年齢超過選手を登録することができる。さらにメンバーの数も18名と少ないため、10代の選手にとっては非常にハードルが高い大会だ。
そんな中で「10代で五輪本大会に飛び級招集された」日本代表選手8名をご紹介しよう。
中田英寿
出場した大会:1996年アトランタ五輪
その大会での成績:2試合出場0ゴール
オリンピックが23歳以下の大会となってから2回目の開催となる1996年のアトランタ五輪。このフォーマットになってから日本代表は初めての出場であった。
その大会で代表に招集された10代の選手は二人で、そのうち1人は後に海外で活躍することになる中田英寿であった。
グループステージ第1節で日本代表はブラジルを相手に1-0と勝利を収め、「マイアミの奇跡」と呼ばれるほどのインパクトを残した。
ただ中田英寿は第2節のナイジェリア戦のハーフタイムで途中交代となり、第3節のハンガリー戦では出場なし。日本代表は惜しくもグループステージ敗退となっている。
当時は西野朗監督との対立が原因だと伝えられたが、後に前園真聖のYoutubeで語られたところによれば特に揉めたという事実はなかったようだ。
松田直樹
出場した大会:1996年アトランタ五輪
その大会での成績:3試合出場0ゴール
中田英寿とともに1996年のアトランタ五輪で10代にしてメンバー入りしたのがディフェンダーの松田直樹であった。
飛び級招集でありながらも松田直樹は開幕戦となったブラジルとの試合で先発出場し、怪物ロナウドをマーク。「マイアミの奇跡」と呼ばれる勝利に大きく貢献した。
さらにその後ナイジェリア戦とハンガリー戦でも3バックの一角でプレーし、守備的な戦術でプレーした日本代表の最終ラインで重要な存在となった。
中田英寿よりも少し年下だったため、彼の19歳と4ヶ月という五輪出場は日本サッカー史上最年少記録であった。
平山相太
出場した大会:2004年アテネ五輪
その大会での成績:1試合出場0ゴール
国見高校で大ブレイクしたあと、Jクラブからの誘いを断って筑波大学へと進学した長身ストライカー。
このアテネ五輪では早稲田大学の徳永洋平とともに学生ながらメンバー入りし、大きな話題を集める存在となった。
開幕となったパラグアイ戦で松田直樹の最年少記録を更新する19歳と2ヶ月で途中出場したものの、その試合でゴールを決められず、残りの2試合では出番が与えられなかった。
それもあって2005年には筑波大学を休学してオランダのヘラクレス・アルメロへと移籍。海外のサッカーを経験し、プロ選手としてのスタートを切った。