答え

37.南米の国でワールドカップに出場したことが無いのは?

正解:ベネズエラ

ブラジル、アルゼンチンと強豪ひしめく南米大陸。ワールドカップに唯一出場したことが無いのがベネズエラ代表だ。

野球が盛んな国だが、近年はサッカーの競技人口が上回っているという。ワールドカップの出場経験が無いことから「南米最弱」と評されているが、2007年のコパ・アメリカでは開催国としてベスト8に進出した。

2010年のワールドカップ予選は勝ち点23で7位。大陸間プレーオフに回る5位まで勝ち点差はわずかに1であった。そして翌年のコパ・アメリカ2011において初のベスト4進出。少しづつ世界への階段を登っている段階にある。

しかし、ロシアワールドカップの予選では6試合を終えた現在、0勝1分5敗の最下位。残り12試合あるとはいえ、非常に苦しい戦いが続いている。昨年末には代表15選手が一挙に引退宣言するなど、連盟との関係も悪化している。

歴代最多出場も最多得点も同国の英雄フアン・アランゴが保有。マジョルカやボルシアMGなど、数少ない欧州で活躍するベネズエラ人選手だ。

38.2010年のワールドカップで、無敗ながらグループステージ敗退となったのは?

正解:ニュージーランド代表

これは覚えている方も多いかも?

2010年のワールドカップ南アフリカ大会。パラグアイ、スロバキア、イタリアと同じグループFに入ったニュージーランド。

前回王者のイタリアと同グループということで、非常に難しいグループであったが、蓋を開けてみればイタリアが大苦戦。初戦のパラグアイ、2戦目のニュージーランドと連続で引き分け。最終的に3戦目のスロバキア戦を落とし、グループステージで敗退している。

1982年以来の出場であったニュージーランドはイタリア戦を含め、3戦全て引き分けと善戦。しかし、勝ち点1差で3位となりグループステージで敗退している。

39.GKで唯一バロンドールを獲得したのは?

正解:レフ・ヤシン

元ソ連代表のGK、レフ・ヤシンは1963年にバロンドールを獲得。GKで唯一バロンドールを受賞していることから、「史上最高のGK」と評されている。

長い腕と黒いユニフォームとグローブから「黒蜘蛛」と呼ばれ、当時は珍しかった積極的にペナルティエリア外に飛び出すプレースタイルであった。

また、ワールドカップにおける最優秀GK賞は現在「ゴールデングローブ」という名前だが、表彰が始まった1994年大会から2006年大会までは「ヤシン賞」と呼ばれていた。

ヤシンは戦前の1929年、モスクワで生まれた。戦後の1949年にディナモ・モスクワに入団。キャリア全てをディモ・モスクワに捧げている。

代表選手としては1956年のメルボルン五輪で金メダルを獲得。ワールドカップは1958年、1962年、1966年の3回に出場している(1970年はメンバー入りのみ、出場なし)。また、1960年に開催された第一回の欧州選手権である欧州ネイションズカップの優勝に貢献した。

1971年の引退試合には10万人のファンが集結し、対戦相手の世界選抜にはペレ、エウゼビオ、フランツ・ベッケンバウアー、ボビー・チャールトン、ゲルト・ミュラーら錚々たるメンバーが集結した。

引退後、ヤシンは20年以上もディナモ・モスクワの管理ポジションで働き、ディナモ・スタジアムには銅像が建てられた。また、1986年、ブダペスト滞在中に血栓性静脈炎を発祥。片足を切断することを余儀なくされている。

その後、1990年に胃癌で逝去。ソヴィエトのスポーツ界に多大な貢献を果たした人物として国葬された。

40.元リヴァプールで元アヤックスのヤリ・リトマネンが出場記録を保有するのはヨーロッパのどこの国の代表?

正解:フィンランド代表

ヤリ・リトマネンは元フィンランド代表で同国で137試合に出場した選手で「フィンランド史上最高の100人」の投票において42位でランクインしている同国の英雄だ。

地元のクラブであるラハティでキャリアをスタート。1989年には18歳で代表デビューし、翌年の1990年には19歳でフィンランド年間最優秀選手に選出されている。

フィンランドのクラブを渡り歩いた後、1992年にアヤックスに入団。一瞬で常人の数倍の選択肢を用意する判断力、オフザボールのポジショニング、エレガントなボールタッチが高く評価された。

1993-94シーズンにはインテルに移籍したデニス・ベルカンプの後釜に据えられ、26ゴールを奪ってエールディヴィジの得点王に。翌1994-95シーズンはチャンピオンズリーグのファイナルで当時欧州最強クラブであったミランを破り、10番としてアヤックスを22年ぶりのチャンピオンズリーグ制覇に導いた。

当時のアヤックスはパトリック・クライファート、ヌワンコ・カヌ、マルク・オーフェルマルス、、クラレンス・セードルフ、エドガー・ダーヴィッツ、ロナルト・デ・ブール、フランク・デ・ブール、フィニディ・ジョージ、マイケル・ライジハー、エドウィン・ファン・デル・サールらの若手が集結。「アヤックス・システム」と呼ばれた3-4-3で欧州を席巻していた。

クライファートやセードルフ、ダーヴィッツに対する評価も高かったが、中心はリトマネンであり、ヨハン・クライフやベルカンプを差し置いて「アヤックス史上最高の10番」とも呼ばれた。

1999年には恩師ルイス・ファン・ハールの肝いりで10番として迎え入れられたがフィットせず。チームの中心に据えられていたため、リーグ3連覇を逃した戦犯のようにバッシングを受けた。

その後、子供の頃からのあこがれであったリヴァプールに加入。しかし、選手層の暑さ、そして故障などの影響で充分な出場機会を得られず。2002年にアヤックスに復帰した。その後はクラブを転々とし、40歳過ぎまで現役を続け、2011年シーズンにHJKヘルシンキで1年プレーして引退した。

フィンランド年間最優秀選手は9回。代表選手としての大舞台には縁が無く、バルセロナ移籍以降の失速から「早熟」と評価された選手だが、40歳まで現役を続けられたのは、彼がそれだけの技量とサッカーへの情熱を持ちあわせていたからに他ならない。

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