1978年に行われた自国開催のワールドカップに出場できなかったことは、マラドーナの心に深い傷を残した。しかし、その悲しみを自らの燃料に変えたマラドーナ。1978年からの3年間、アルゼンチン国内の選手権では、アルヘンチノスが一度もタイトルを獲得していないにも関わらず、ほとんどの大会で得点王を獲得した。

当時アルゼンチンの絶対的な王者だったリーベル・プレートからオファーが届くようになったが、マラドーナにはリーベル・プレートのライバル、ボカ・ジュニオールズへ行きたいという強烈な願望があった。

裕福なリーベルに比べてボカには資金がなかったため交渉は難航したが、最終的にマラドーナの希望通り、1981年2月20日、「ボカのマラドーナ」が誕生した。買い取りオプション付のレンタル移籍ではあったが、その代わりにボカは、400万ドルと6人の選手を手放さなければならなかった。

リーグ最高の選手を獲得したボカは、直後のメトロポリタン選手権でフェッロ・カリル・オエステとの激しい優勝争いの末、4年半ぶりのタイトルを獲得。多くのファンを持つボカでの成功により、マラドーナは気軽に外へ出ることもできなくなってしまった。

マラドーナに熱狂していたのは、ヨーロッパも同じ。彼を引き留めるための資金を稼ぎだすべく、ボカは頻繁に海外ツアーへ出かけたが、アルゼンチンのクラブがヨーロッパのクラブに資金面で対抗するのは土台無理な話だった。

マラドーナ自身もそうした現実を十分認識しており、「移籍するならスペイン」と公言。そして、1982年のスペインワールドカップ直前、マラドーナのバルセロナ移籍が決まった。