アスールグラナ(青とえんじ)のユニフォームに袖を通したマラドーナ。しかし、彼を待ち受けていたのは多くの困難だった。ヨーロッパのフィジカルを活かしたサッカーへの戸惑い。また、ドイツ代表ベルント・シュスター以外のチームメイトから認めてもらえず、移籍当初は練習や試合でなかなかパスをもらうことができなかった。

さらに追い討ちをかけるように、1982年12月、肝炎を発症。それでもシーズン途中に、元アルゼンチン代表監督のセサル・ルイス・メノッティがバルセロナの監督に就任すると、徐々に本領を発揮。ラ・リーガでは4位に終わったものの、スペイン国王杯では決勝でレアル・マドリーを下して優勝を果たした。

ただ、このころ既にバルセロナのジョセップ・ルイス・ヌニェス会長との関係は最悪の状態だった。

迎えた1983-84シーズン。開幕まもない9月24日に行われた王者アスレティック・ビルバオ戦で、マラドーナはアンドニ・ゴイコエチェアから悪質なタックルを受け、左足首骨折の重傷を負った。

荒いスペインのサッカー、ヌニェス会長との確執、プライベートを騒ぎ立てるメディア。これらに対する不満が爆発したのが、2年連続で進んだスペイン国王杯決勝。因縁のビルバオとの一戦で、マラドーナは自ら大乱闘を起こし、ほどなくバルセロナから離れる意思を固めた。

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そうしたときにオファーを持ってきたのがナポリだった。契約内容も良かったため、マラドーナはナポリと即合意。これに激怒したヌニェス会長は破格の移籍金を要求したが、ナポリにルーツを持つマラドーナのために(※祖母がナポリ出身)ナポリ市民が寄付金を集めるなどし、1984年6月30日、マラドーナのナポリ移籍が決まった。

【追記】次回はナポリ編の予定でしたが、ナポリ編のみ著者が弊社ではなかったため、ヒストリーの配信は一旦停止いたします。申し訳ございません。

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