高校生で「ユースをクビに」異例の育成年代

充実した時間を過ごした禹だったが、1年生のときに通っていた高校内での喧嘩騒動に巻き込まれてマリノスユース退団の憂き目に遭った。高校1年の11月から春先まで無所属期間が続いた。

―高校生で無所属はかなり大変だったと思いますが、振り返っていかがでしたか。

どこにも在籍していない期間が半年ぐらいかな。その間は札幌でトレーニングしたり、土木作業の仕事をしたりと(苦笑)。サッカーを辞めることも考えました。

―そんな中で2年生に進級する前に、柏レイソルユースへ入団しました。

(北海道出身の)清川浩行さんとのつながりがあって柏ユースに入団することができました。マリノスユースを退団してどん底を経験したので、感謝しかないです。(高校3年生の夏)クラブユース選手権決勝の試合前にあった整列で、サッカーを辞めることも考えましたから感極まって目がウルウルしましたね。

―クラブユース間の移籍は中々レアなケースですけど、レイソルとマリノスの違いはありましたか。

マリノスは個人技で打開するスキルのレベルが高かったです。レイソルは連係面の攻守を大事にするチームでしたね。「止める、蹴る」の基礎技術が高かったし、「止める、蹴る」の練習も多かったです。今思うと、レイソルで基礎技術の土台を作れたと思います。

―レイソルユースの中でも飛びぬけて優れた選手はいましたか。

茨田(陽生)くんが「止める、蹴る」のお手本でしたね。レイソルの育成が生んだトップレベルの選手だなと思いましたよ。

―禹選手はトップチームに帯同するほど期待されていたと聞いています。

そうですね。半年以上トップチームに帯同していました。練習試合も毎週行っていましたし、(進路が決まる)ギリギリまでラインには立っていたと思います。でも夏過ぎにはチームメイトのみんなの進路が決まっていくじゃないですか。僕は秋ごろまで時間がかかったので、結構内心ドキドキしていました。プロに行けるという根拠のない自信もあって、ちょっと焦っていました。

―結果はトップチーム昇格が見送られましたね…。

ショックでしたよ。これからどうしようって…。今では前向きにメンタルのコントロールができますけど、当時は難しかった。受け入れるのに時間がかかりました。

―卒業後の進路は明海大を選ばれました。

当時は(競技)レベルの高い大学に行くために、大学を調べる力がなかったんですよね。時期もギリギリでしたからね…。(選んだ理由は)今まで母親一人に育ててもらっていたので、条件の良かった特待生として明海大に進みました。

―リーグは千葉県1部。関東リーグ2部昇格を目指して奮闘したと。

当時はチームを上げればいいと考えてプレーしていました。でも毎年参入戦に行きましたけど、最後まで上がれませんでしたね…。

―大学では苦しい時期が続いたのですか。

大学生なので色んな誘惑もあって、周りとの温度差を感じていましたね。プロチームの練習参加もジェフ(ユナイテッド市原・千葉)には何回か人数合わせで参加しましたけど、他はなかったですね。4年生になったときにはどこにも行けないだろうなと思ったので、海外にチャレンジしようと思いました。

明海大でプレーした禹相皓(本人提供)

海外挑戦を決めたものの、欧州の市場が開く時期は卒業後の夏。空白期間中の禹はFC KOREAの門を叩いた。クラブは2015年当時、日本で生活する韓国人、北朝鮮人を中心にチーム作りをする方針を取っていた。日本生まれで韓国の国籍を持つ禹は入団条件を満たしていたが、海外クラブの挑戦を目指していたため練習参加を願い出ていた。

―卒業後はFC KOREAに入団しました。経緯を教えてください。

海外のチャレンジは夏になるので、それまでFC KOREAに練習参加できないかと聞いたら、(先方から)試合に出たほうがいいと3、4カ月の間チームに登録させてもらいました。何試合か出ることもできましたし、FC KOREAでトレーニングができたから欧州に行けました。今でも感謝しています。

―チームメイトの方々から刺激を受けましたか。

みなさん仕事をしながらサッカーをしていましたけど、サッカーに対する姿勢や思いが強くて僕のモチベーションが上がりました。本当に心地いい環境で、本来の自分を取り戻すことができました。在日韓国人のコミュニティに入って、(練習など)手を抜かないという部分を学べて人間的に成長できたと思います。