かつて日本代表としてプレーした細貝萌は現在、自身の地元であるJ2のザスパ群馬でプレーしている。

浦和レッズで頭角を現した彼は、2011年にドイツの強豪バイエル・レヴァークーゼンと契約。その後アウクスブルク、ヘルタ・ベルリン、トルコのブルサスポルやタイのブリーラム・ユナイテッドなど世界を股にかけて活躍した。

日本代表では長谷部誠、遠藤保仁という高い壁に阻まれワールドカップに出場することはできなかったが、彼ほどの経験値を積んでいる日本人選手はそれほど多くないだろう。

異国での孤独な環境の中でいったい彼は何を感じながらプレーしていたのだろうか。インタビューの前編では、海外でのキャリアを振り返ってもらった。

――前橋育英高校では10番を付けて攻撃的な選手でした。当時のご自身をどう振り返りますか?

僕は中学校が前橋ジュニアでそこから前橋育英高校に行きましたが、当時は基本的に真ん中で好きにやらせてもらう感じでした。

「チームのため」っていうのはもちろんですけど、「自分が気持ちよくプレーすることがチームにとってプラスになる」ということで、ある程度は監督も自由にさせてくれていました。

守備はそもそも好きじゃなくて、攻撃に専念してというか少しでも前で存在感を出せるようにという感覚でプレーしていましたね。今とはプレースタイルも全く違うと思いますし、もっと積極的に前でボールを触るような感じのプレーヤーだったなと思います。

――プロ入りをされて守備の比重が増えていきましたね。

最初は「えっ」て思ってました。

当時世代別代表…U-15, 16, 17, 18と毎年呼んでもらってたんですけど、“守備的な選手”として呼ばれたわけじゃありません。中盤の右をやったり左をやったり…ボランチでの起用もありましたが、どちらかというと“攻撃的なボランチ”として代表にも呼んでもらってたので。ナショナルトレセンとかもそうですけど。なので、その世代の日本代表の選手たちとやっていたのにポジションがどんどん下がっていくことに関してはすごく抵抗がありましたね。

でも浦和に加入して、2年連続で準々決勝、準決勝、決勝と全部出させてもらい、そこで3バックの一角とかを任されました。決勝の相手はガンバ大阪、清水エスパルス。そういう外国人の(強力な)ストライカーがいるような相手にも3バックの一角として試合に出て勝利を収めたのはすごく自信になりました。

それが守備に入っていくきっかけの一つだったのかなと思いますね。

――当時の浦和はJリーグ最強のチームだったと思うんですが、特に印象に残ってる選手はいますか?

「この選手」というよりはみんな個が素晴らしい選手たちでした。

僕も今(群馬)ではGKの清水慶記さんという先輩を除いてフィールドプレーヤーでは一番年上なんですけど、当時は1, 2年目なんで19, 20歳。当然一番年下で。僕以外の選手は10人年上で一番年下という形で天皇杯に出ていましたから、ある程度やれれば周りがカバーしてくれました。

天皇杯も別に僕が活躍したっていうのではなくて、周りの選手たちが上手くカバーしてくれて、その波にしっかり乗れたっていうのはデカかったなと思います。