プロ4年目まで無得点のFW~点取り屋として覚醒

2008年、川又は高校卒業のタイミングで当時J1の新潟とプロ契約を締結。高校時代から誘いを受けていた愛媛と徳島からもオファーはあったはずだが、決め手になったのは1人のブラジル人ストライカーだった。

「高卒のタイミングでは多くのクラブに練習参加させていただきました。その中から新潟に決めたのは、当時のエースだったFWエジミウソン(※Jリーグでは新潟、浦和レッズなどで活躍し、J1通算111ゴールを記録)がいたからです。

僕も高校時代からシュート力には自信があったのですが、エジミウソンのシュートは比べ物になりませんでした。ただ、僕が入るタイミングで彼が浦和に移籍して、入れ違いになってしまったのは複雑でしたね(笑)」

エジミウソンとの共演は叶わなかったが、当時の新潟にはペドロ・ジュニオールやブルーノ・ロペス、ラファエル・シルバなど、他クラブでも大活躍することになる強力なブラジル人FWが毎年のように加入していた。

「高いレベルでサッカーをしたいと考えていたので、ポジション争いをすることは気になりませんでした。それこそ、エジミウソンの近くでプレーしたいと考えて加入を決めましたし、その頃から自分が点を取る自信もありましたから」

184cm77kgの大型FW川又がピッチに登場すると、ゴールへの飢えと殺気立った目つきで相手に襲い掛かるような強烈なインパクトを放つ。それは20歳前後から変わらない。

「ピッチ上は戦場なので、常に相手と闘う意識でいます。たとえ相手に仲が良い選手がいても、試合前から関わりたくないタイプだと思いますよ。逆に味方は全員俺が守ってやるっていう気持ちでいますね」

一見すると坊主で強面なイメージが先行する川又だが、新潟でのプロデビュー戦は気合が空回りして何もできず。僅か11分間で途中出場途中交代。2011年にはリーグ初先発を言い渡された前日に著しく体調を崩して欠場したこともある。

「いろいろ節目であるんですよ。初先発を言い渡された前日は酷く嘔吐してしまって。それだけだったんで、そのまま行こうと思ったら、さすがにクラブからストップがかかりましたね(笑)」

その2011年にプロ4年目を迎えた川又は天皇杯とヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)でゴールを奪い、リーグ戦でも出場機会が急増。前年にブラジルのサンパウロ州2部カタンドゥヴェンセに半年間の期限付き移籍を経験したことも大きかった。

それでもJ1リーグでのゴールは遠く、出場23試合で無得点。プロ入り後4年間で1度もJ1のゴールネットを揺らせなかった。

「2011年は合計8回もポストに当ててしまって無得点が続きました。翌年にJ2のファジアーノ岡山へ行くことになった時も、自分ではJ1でやれる自信があったんですけど、同時に『J2で点が取れなかったら新潟には戻れない』という気持ちもありました」

覚悟を決めた川又は岡山でJ2得点ランク2位の18ゴールを挙げ、点取り屋として覚醒。その頃にはトレードマークも意識するようになったようだ。高校時代はアシンメトリーのようなオシャレなヘアスタイルだった川又が笑う。

「僕は『坊主にする=気合が入る』と考えるような古いタイプの人間なので、初心にかえるという意味でしたのがキッカケです。実際、岡山で18ゴールとって、『川又=坊主』と認知してもらいたかったのもあります」