答え

25.2015年、メキシコは10回目のCONCACAFゴールドカップ制覇を成し遂げたにもかかわらず指揮官のミゲル・エレーラは解任された。なぜ?

正解:TVリポーターを殴った(とされる)ため

大会最多の10回目のゴールドカップ制覇を成し遂げたミゲル・エレーラ監督。彼は現役時代はDFとしてアトランテなどでプレー。代表も経験しており、14試合に出場した経験を持っている。

現役引退後はアトランテ、モンテレー、クラブ・アメリカなどの指揮官を歴任。2013年に代表監督に指名され、一時期はクラブ・アメリカの監督と兼任した。2014年のワールドカップではチームを決勝トーナメントに導くも、ベスト16のオランダ戦に1-2で敗北している。

親善試合のスタメンをTwitterで発表するなどキャラクターの濃い監督だったが、ゴールドカップ制覇後にフィラデルフィア国際空港で事件が起きた。

通関待ちの時にTVアステカのアナウンサー、クリスティアン・マルティノリと居合わせたのだが、マルティノリはエレーラを批判していた人物であり、エレーラが怒って殴ってしまったという。

その後、エレーラは公の場で謝罪したようだが、メキシコ代表は解任を選択。2015年の7月に代表監督から退いている。

26.ミランのレジェンド、ジョージ・ウェアはアフリカのどこの代表?

正解:リベリア

日本代表MF本田圭佑の所属するミランのレジェンドであるジョージ・ウェア。彼の愛称である”リベリアの怪人”を覚えているファンも多いはずだ。

母国のクラブでキャリアを積んだ後、ウェアはカメルーンで1シーズンプレー。その後、フランスのモナコに移籍し、ポテンシャルを開花させた。1992年にはPSGに移籍。チームをリーグ優勝に導く活躍を見せ、フランスカップも制覇した。同年、アフリカ人として史上初のバロンドール受賞を達成。FIFA年間最優秀選手も受賞した。

ミランにはマルコ・ファン・バステンの後釜として1995年に加入。当時のイタリア代表のエースであったロベルト・バッジョと同時期に加入し、デヤン・サヴィチェヴィッチと形成する攻撃陣が注目されたが、バッジョやサヴィチェヴィッチが霞む活躍を示したのがウェアだった。

ウェア加入時のミランはリーグ4連覇をユヴェントスに止められたばかりであったが、驚異的な身体能力を誇るウェアの活躍でスクデット奪還に成功している。ミラン時代に見せたラツィオ戦の”1人スルーパス”は今も伝説だ。

ミランを退団した後、ウェアはイングランドへ渡りチェルシーやマンチェスター・シティでプレー。マルセイユを経て、UAEのアル・ジャジーラで現役を引退している。

現役引退後はニューヨークで暮らしていたが、祖国のために大統領選挙に立候補するも敗戦。その後も政治家としての活動を続けており、2014年に上院議員になっている。

また、2008年には福島県社会人リーグ3部西のバリエンテ郡山の総監督に就任して話題になった。しかし、来日は就任の際の一度のみ。その後、運営会社が不祥事で解散し、ウェアも退任した。

27.オランダのチームが欧州の大会で最後に優勝したのはいつ?

正解:2002年

先日他界したヨハン・クライフなど、一流選手を多く輩出しているオランダ。代表レベルでは世界に名を轟かす存在だが、クラブレベルでは近年あまり活躍できていない。設問の通り、2002年にフェイエノールトがUEFAカップを制覇したのが欧州の舞台での最後のタイトルとなっている。

フェイエノールトのUEFAカップ制覇といえば、覚えている方も多いことだろう。元日本代表MF小野伸二が、スターティング・イレブンとしてプレーしていたからだ。元オランダ代表FWピエール・ファン・ホーイドンク、元デンマーク代表FWヨン=ダール・トマソン、そして、若き日のロビン・ファン・ペルシーなど、ファイナルのドルトムント戦に先発したメンバーは非常に豪華であった。

対するドルトムントには、元ブラジル代表FWマルシオ・アモローゾに元チェコ代表FWヤン・コレル。そして現アーセナルのトマーシュ・ロシツキなどが在籍。センターバックには元ドイツ代表でかつて世界最高のストッパーとも評されたユルゲン・コーラーが在籍していた。

28.スティーヴ・キーンが指揮官を務めているのは?

正解:ブルネイ代表

日本ではあまり馴染みのない人物であるスティーヴ・キーン。スコットランド出身の彼は、セルティックの下部組織でプロ選手を目指したが、ファーストチームに割って入ることができず、選手としては有名になれないままに現役を引退した人物である。

26歳で現役を引退した後、キーンはレディングでコーチ業をスタート。その後、フラム、レアル・ソシエダ、コヴェントリー・シティでアシスタントコーチを務めたのだが、その時に監督を務めたのは現ウェールズ代表監督のクリス・コールマンだった。コールマンとキーンのつながりは1987年にスウォンジー・シティで一緒だっただけだが、何か通じるものがあったのだろう。

2008年、表舞台にキーンの名が登場する。当時のチェルシー指揮官、ルイス・フェリペ・スコラーリのアシスタントコーチになると報じられたのだ。その理由は彼がポルトガル語を流暢に話すことができたためであった(1988年から3年間ポルトガルリーグでプレーしていた)。しかし、最終的には実現せず、翌年、ブラックバーンのサム・アラダイスの要請によりファーストチームのコーチとなった。

翌2010年の12月、アラダイスが解任されると、キーンは暫定監督としてブラックバーンの指揮官の就任。シーズン終了までの予定だったが、年があけると正式な監督として契約を結んだ。しかし、キーン就任後のブラックバーンの成績はまったく改善されず、2012年の9月に退団している。

その後、キーンはブルネイに渡り、シンガポールのSリーグに参戦するクラブであるブルネイDPMMの指揮官に就任。チームをシンガポール・リーグカップ(2014年)、Sリーグ制覇(2015年)に導くなど結果を残した。

2014年の10月にはブルネイ代表監督を兼任することとなり、スズキカップで指揮を執った。現在はブルネイDPMMの指揮官のみ務めている。

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