ガンバを退団し横浜FCで活躍

――その後ユースを経てトップチーム昇格。ユースとの違いは感じられましたか?

ガンバでは高校3年の時からトップチームに帯同させてもらいました。

スピードやプレーの判断といった全ての面における速さ、対人戦になった時の体の使い方やフィジカル的な強さを感じて、とにかく練習から周りの選手についていくのに必死でした。

トップとユースの違いで最も大きいのは指導者との関わり方だと思います。

西野朗監督(2002年年から10年間、G大阪を指揮。その後、日本代表監督も歴任)から直接厳しいことを指摘されるわけではなかったのですが、10代の頃の僕には独特のオーラを感じました。

でも、『自分なんかに興味ないだろうな』って思っていたら、急にポロッと指摘されて自分の気持ちを読まれていたり、しっかりと見られているのも分かりました。

――2004年にプロデビューし、チームは2005年にクラブ史上初タイトルとなるJ1リーグ優勝を飾るなど黄金期を迎えました。特に当時のMFには遠藤保仁選手、橋本英郎選手、二川孝広選手がいて、2006年には明神智和選手が加入。寺田さんも優勝争いをするチームの中で2006年はリーグ20試合(先発4)、翌2007年には同21試合(先発5)に出場されましたが、レギュラーポジションを掴むまでには至りませんでした。

フタさん(二川)のポジションを狙っていました。

フタさんだけでなく当時のガンバの中盤の選手にはパサータイプが多かったので、ドリブルに持ち味があった僕はそこで“違い”を作ってラストパスやシュートを撃って得点に絡んで行こうと考えていました。

でも、今思えば遠く及ばなかったですね。今ならフタさんからポジション取れると思うんですけどね。今のフタさんと今の僕なら(笑)。

でも今振り返ってみても、途中出場でもよく試合に出してもらっていたんだなって思います。それだけ毎日いっぱいいっぱいでしたから。

――2010年に初めてレンタルという形で横浜FCへ移籍。その後一度ガンバに復帰しましたが、すぐに横浜FCに完全移籍となりました。

もっと早いタイミングで1度はガンバから出る選択をしても良かったと今は思います。

2009年の元日には柏レイソルと天皇杯決勝を戦ったんですが、実はそのレイソルからオファーを受けていました。レイソルの監督にガンバユース時代の高橋真一郎監督が就任することが決まっていたこともあり、次のシーズンから移籍するつもりだったんです。

その決勝で僕はガンバの選手として120分間フル出場して1-0で勝ちました。やっぱりガンバは強いなと改めて感じながら優勝を勝ち取れたので残留を決意したんですけど、もし決勝の相手がレイソルじゃなかったら移籍していたと思いますね。

他にも、2009年の夏だったと思うんですけど、代理人からは『怪我で長期離脱したジウシーニョ(Jクラブ4チームに在籍した小柄なブラジル人アタッカー)の代役としてジュビロ磐田からオファーがある』と聞いていました。

ただ、移籍は自分だけでなく、他の選手や双方のクラブの意向など、いろんなタイミングがあるのでなかなか実現しません。だからこそ、オファーをいただけることは有難い話なんです。

そんな中で横浜FCに移籍する決め手になったのは、岸野靖之監督と直接お話をしたことです。岸野さんには球際の強さや泥臭いプレーなど、僕も自分で足りないと思っていた部分を熱く指摘してもらいました。『この人は本気で僕を求めてくれているな』って思えたので移籍する決断ができました。

2012年にはガンバへ復帰したんですけど、夏には完全移籍で横浜FCへ戻ってきました。

その頃、強化部長をされていた奥大介さん(元日本代表、2014年に交通事故で他界)には本当にお世話になりました。あの時、移籍希望を出した直後にダイさんから声をかけていただいたからこそ、横浜FCでは(レンタル期間も含めて)8シーズン在籍することになりました。

横浜FCではほとんどの試合で先発出場できました。2014年からは背番号『10』もつけさせてもらいましたし、キャプテンも3年間務めさせてもらいました。

やっぱり年間通して試合に出ると色んな経験ができますし、楽しかったですよ。

――ただ、横浜FC時代の2011年7月、左膝の骨折と内側靭帯、後十字靭帯損傷という一気に3か所を痛めて長期離脱を伴う重症を負われて以降はかなりドリブルが減りました。

あの怪我でドリブルが怖くなりましたからね。かなりプレースタイルは変えました。怪我する以前からボランチを経験したことで『パスで相手をいなす』という、それまでとは違った楽しみも見出しました。ガンバ時代に西野監督にも『人よりボールの方が速く動くんだぞ』とよく言われていましたしね。

ただ、実際に僕がガンバ時代に途中出場で試合に出る時の西野監督からの指示は、『とにかくサイドをドリブルで崩せ!勝負しろ!』っていうものだったんで、『どっちやねん』とか思いましたよ(笑)。

でも、今になって感じるのは、サッカーには答えがないし、矛盾だらけなスポーツだなって思います。あれだけ練習中いつも『早くパス出せ』と言っていたのに、ドリブルしなかったら怒られる時もあるっていう。その逆も然りですよね。でも、その場その場の判断を楽しみながらプレーすることが大事だなって思いますね。それがサッカーを楽しむことに繋がると思います。

それと、その怪我の直後は実家に帰っていたんですけど、その時ちょうど女子W杯ドイツ大会が開催されていました。御存知のように、なでしこジャパンが優勝したんですけど、決勝のアメリカ戦はオカンと早朝からテレビで観ていました。

実はその決勝にも出場していたMF阪口夢穂選手(大宮アルディージャVENTUS)と僕は小学生の頃に何度かサッカーをしたことがあるんです。TOM FCの監督の娘さんが阪口選手と一緒にプレーしていたんです。小さい頃に一緒にボールを蹴っていた阪口選手が世界の第一線で活躍する姿を見て、怪我をした直後の僕は元気をもらえましたね。

それにしても、あの優勝って10年前ですか?そら僕も年とるはずですわ(笑)。