ただ試合に多く絡める1年半ではなく、そのタイミングで長野パルセイロが声をかけてくれました。初めて関西から外に出るということに勇気は必要でしたが、長野さんの声の力に加え、地元に密着しているという話も聞いていて、とても興味がありました。
初めて練習着を自分で洗濯したり、スパイクも自分たちで持っていく。そのような泥臭い環境に初めて身を置いたので、戸惑いや苦労もありましたが、みんなが純粋に昇格を目指して戦っているのをすごく感じられました。それが財産になりました。
その後に行った東京ヴェルディは、以前から声をかけてくれていたクラブでした。スペイン人のロティーナ監督から、自分がそれまで思い描いていたサッカー観とは違うものを教わりました。
2年連続でプレーオフまで行けましたし、取り組んでいることから学ぶものが多かった。39歳になっても得られるものがある、それを実感できました。
試合にはそれほど絡めなかったんですが、チームを支える人々の思い、そしてサブの選手たちと『チームが勝つために我々はどうすればいいのか』を話しながら過ごしていました。指導者を目指す上で、すごくいい経験になったと思います。
その後は皆さんご存知の通り岡田武史さんのFC今治に行きました。JFLという4部リーグに当たるところだったので、Jリーグから離れる恐怖心もありました。
ただ、J3に昇格させられればあの世界に戻れるという思いと、地域でも4000~5000人の観客を集められるチームで昇格のために戦えるというのは、なかなか得られる経験ではないと感じました。
JFLからJ3に上がる時、第27節の前半27分に僕がゴールを決めて、それが昇格を決める得点になった。自分の背番号と同じだということも周りで話題になって、運命を感じられました。
ただそこでも怪我に悩まされてしまい、右鎖骨を骨折してシーズンを終え、そのまま退団になってしまいました。
そのような状態でも去年おこしやす京都ACが声をかけてくれて、選手兼コーチという形で新しい挑戦をさせていただきました。
選手としても活動するし、現場でみんなに指導もするし、両方の面からチームにかかわることができる、今までにない経験でした。
最終的には全国社会人サッカー選手権大会の3回戦で負けてしまったことでシーズンが終わり、それが僕の最後の試合になりました。
負けた後にすぐ引退を決断したわけではないんです。全国社会人サッカー選手権大会でも3日間で3試合に出場できました。
ただ、怪我でやはり自分のパフォーマンスが落ちてきているのを感じましたし、時間を置けば置くほどコンディションや回復が追いついてきませんでした。
25年間、毎年のように怪我をしてきました。もともと練習生で、体も大きくはありませんでした。そのなかでドクターやトレーナーの方が親身になって対応してくれましたし、治療やトレーニングもいろんなところに行きました。
そのおかげでここまでやれたと思っています。自分に関わってくださった様々な方に感謝を伝えたいと思います」
現役時代から複数の会社を経営し、解説者としても活動していた橋本英郎であるが、今後は指導者への道を歩むと話していた。