――3.11が発生した時はどこでどう過ごされていたのでしょうか。

「あのときは部活が終わって部室にいました。地震には慣れているつもりでしたけど、想像を超えてくる揺れがあって、部室から出て『逃げなきゃ』と思いました。みんなでグラウンドにしゃがんでうずくまって…。グラウンドの照明もしなっていて、折れてくるんじゃないかと思いました」

――壮絶でしたね…。その後は自宅へ帰れたのでしょうか。

「電車で通学していたので帰れませんでした。帰れたのは次の日ですね。部室で帰れない選手たちと一晩泊まって、(暖房については)ベンチコートもあったので。お母さんとはその日のうちに連絡ができて、無事を確認できました。朝に(双子の)弟と、チームメイトの3人で自転車を使って帰りました」

――仙台大がある船岡(※柴田郡柴田町)から仙台市だと20㎞は優に超えますね。

「4時間くらいかかったのかな。道中で用水路や田んぼを見たらガレキがここまできているんだと思いました。大学近くのコンビニはガラスも割れていて、会計も電卓でしていたぐらいでしたから」

――お母さまとは帰宅後に再会しましたが、お父さまはまだ安否が分からなかったと。

「お母さんが11日に連絡を取って、お父さんから『現場の仕事を終えて、いまからすぐに家に帰るよ』と言っていたみたいです。僕も状況をよく理解できていなかったので、お母さんに『すぐ帰ってくるんじゃない?』と軽く言ってしまった。それをいまでも後悔しています。そんな軽い話ではなかったので、(いまでも)記憶に残っていますね」

水道設備の仕事をしていた父・勝己さん(享年47歳)は、地震による津波によって帰らぬ人になった。この巨大な自然災害は災害関連死を含めて死者1万9759人、行方不明者2553人と甚大な被害を出した。まだ19歳だった菅井は、愛する家族を失う壮絶な経験をした。

――お父さまと再会したのはいつごろでしたか。

「約1週間後だったと思います。お母さんが情報を得るために遺体安置所まで動き回っていました。(利府町にあった遺体安置所で再会した際は)ショックでしたし、約1週間帰って来なかったので、予想はできていましたけど…。急だったので、僕も何がおきたか分からなかったし、最後に何を話したかも覚えていません。僕も部活があって、父も仕事があったので、会う機会も減ってきていました。もう少し話していれば良かったと思います」