――お父さまとの印象深い思い出はありましたか。
「元々どちらかといえば無口な父親だったので、背中で見せるタイプでした。言葉よりも姿勢で見せていたと思います。小学校のときの話で、父は野球をやっていて、サッカーを全くやったことがなかったですけど、シュートは枠に打てとよく言われていましたね。『枠に打たないと入らないし、枠だよ』と言われていたことがとても印象に残っています。なので、小さいころは試合に来てほしくなかった(苦笑)。今でも記憶に残っていますね」
――大黒柱のお父さまが亡くなったことで経済的に苦労なされたのでは。
「サッカーをやめなきゃいけないのかなと思っていました。だけど、お母さんが僕ら(双子の弟・慎也さん)にサッカーをやめる選択肢を与えなかったからサッカーを続けることができました。お母さんは頑張って働いてくれました。遠征費も用具代も、二人分の生活費もかかって、お母さんが働いてやりたいことをやらせてくれた。すごく感謝しています。ほとんどの試合を応援に来てくれました。今でも沼津に一人で来ますし、頑張らないといけないと思っています」
震災後、サッカーに打ち込んだ菅井。献身的なプレーで常勝の仙台大を支えるも、全国大会では目立った結果を出すことができなかった。卒業も迫り、プロチームから声はかからなかった。JFLヴァンラーレ八戸入団後は2015年にベストイレブンに選出されるなど、アマチュアトップリーグを代表する選手となった。
――大学進学後は当時JFLだったヴァンラーレ八戸に入団しました。
「大学卒業後は行くところがなくて、進路が決まっていないときに他大学の監督から話が行って、八戸から声がかかりました。当時は東北にゆかりがある選手も多く、同じ東北の人間というのもあると思いますけど、拾ってくれた八戸のために頑張ろうと思いました」
――当時は仕事をしながらサッカーをしていたのでしょうか。
「午前中に練習して、午後はコールセンターの仕事をしていました。慣れるまで時間がかかりました。ただ僕らのレベルや環境を考えたら、それが当たり前だと思ってやっていました」