「ザールラント」百年史とFKザールブリュッケン
サッカーの前に、この奇妙なストーリーを作った歴史と戦争について解説を。
1.FCザールブリュッケンはザールラントの中心都市、ザールブリュッケンのクラブです。このザールラントこそ、フランスが狙っていた土地でした。1815年のウィーン条約でプロイセン領になった後も、1870年にナポレオン3世は伯父の敗北で失ったここに侵攻して普仏戦争を始め、自らも伯父同様に失脚しました。
1918年、第一次世界大戦に勝利したフランスは敗戦国ドイツのザールラントを占領し、1920年には自らが主導する国際連盟の管理地、「サール盆地地域」として実質統治を強化していました。
ここまでした理由は、ここにある良質の炭田がフランスの復興に必要だったためです。フランスは第一次大戦の戦場となって大被害を受けましたが、ヴェルサイユ条約で良質な鉄鉱石鉱山のあるロレーヌ(ロートリンゲン)を奪回しました。これにサールの石炭があれば、産業の中核である鉄鋼生産に大きな効果が期待できます。
ところが、当初からこの管理期間が終わると決まっていた1935年は、ドイツではアドルフ・ヒトラーによるナチス政権が日の出の勢い、一方フランスは世界恐慌の痛手もあって残り政局不安定。しかもここに住んでいるのは大半がドイツ人です。その結果、1935年1月13日の住民投票では90.7%がドイツへの帰属を求め、そのまま3月1日にザールラントはドイツの一部となりました。その後、第二次世界大戦の序盤にドイツがフランス全土を占領すると、ザールラントはフランスから再び奪ったロートリンゲン(ロレーヌ)のモーゼル県などを加えた「ヴェストマルク大管区」の一部になっていました。
さて1903年4月18日、ザールブリュッケンにも他のドイツ帝国の街と同様にサッカークラブができました。これは「トゥルンフェアアイン1876マールシュタット」、ザールブリュッケンの一地区であるマールシュタットの体操協会の一部門。これも当時のドイツでは良くある話だったようです。これが1907年に独立し、1909年に「FVザールブリュッケン」、つまり「ザールブリュッケンサッカー協会」になりました。
国際連盟管理下になってもザールの各クラブはドイツの大会に参加します。1925/26年シーズンにはFKザールブリュッケンも、隣のライン・ヘッセン州と一緒になっていた州選手権で初優勝し、南部ドイツ選手権(オーバーリーガ)でバイエルン・ミュンヘンなどと対戦しました。ザールラントがナチス・ドイツに編入された後の1936/37年、FKザールブリュッケンは南西・マインヘッセン大管区選手権(ガウリーガ)と改称された地域リーグに初参加し、1940/41年には1.FCカイザースラウテルンを抑えてザール・プファルツ地区で初優勝しました。
1942/43年、2シーズンぶりに地域リーグ優勝したFKザールブリュッケンは、各地域優勝チームのトーナメント制に変わっていた全ドイツ選手権で準優勝となりました。しかし、その周辺には当時の情勢が色濃く反映されています。準決勝の相手は1938年に併合されていたオーストリア(オストマルク)のファースト・ヴィエンナ・ウィーン(現ファースト・ヴィエンナFC)でした。1943/44年の全ドイツ選手権にも出場してベスト8でしたが、2年連続で地域リーグ2位だったのは旧モーゼル県のFVメッツ(メス)。ザールブリュッケン自身も名称を「KSGザールブリュッケン」にしていましたが、KSGは「クリークスシュピールゲマインシャフト」、訳すならば「戦闘競技共同体」という感じでしょうか。そしてノルマンディー上陸作戦からフランス解放が進み、連合国軍が一気にザールラントにも攻め込んだ1944/45年シーズンは試合開催が不可能となり、KSGザールブリュッケンも一度消滅しました。