アクションは再びフランスから

1955年4月、欧州の主要クラブの賛同を得る形で、フランスの「レキップ」紙が欧州クラブ王者決定戦の開始を決定します(この辺の経緯は田村修一氏が「Number」827号(2013年4月)に寄稿した「欧州チャンピオンズカップ誕生秘話」が詳しいです)。UEFAはこれを追認し、形式的に主催する形で「欧州クラブチャンピオンズカップ」を創設し、これが現在につながるUCLの原型になります。1955/56年シーズンに実施と決められた第1回大会では各国リーグ優勝クラブのうち16チームがレキップに選ばれたのですが、その中に「1.FCザールブリュッケン」宛の招待状が入っていました。

これはある意味では奇妙な決定でした。西ドイツの南西地域リーグでは1952/53年から1.FCカイザースラウテルンが5連覇を果たし、1954/55年も1.FCザールブリュッケンは3位に終わって(西)ドイツ選手権への出場を逃していました。全くチャンピオンではなかったのですが、大会を仕切る「レキップ」社のフランス人にとっては当然の決定だったでしょう。「サールはドイツではない」のですから、その最強クラブである1.FCザールブリュッケンは参加資格を満たしていたのです。

一方ではリメ会長の理解もあり、1950年にサールは独自にFIFA加盟を果たしていました。ザールラントサッカー連盟の中には、フランスへの吸収を阻止する意図もあったようです。これは東西両ドイツがFIFA加盟を承認される2年前の事です。1954年のスイスW杯欧州予選で、サール代表は主力選手の多くを1.FCザールブリュッケンから選び、アウェーの初戦でビンケルトの先制点もあってノルウェーに3-2で勝利。しかし、同組だった西ドイツ戦では、先に行われたシュトゥットガルトのネッカー・シュタディオンで0-3、同組最終戦として戦災から復興したルードウィヒスパルク・シュタディオンで戦ったホームマッチでも1-3と完敗し、スイスへの切符を逃しました。これを勝ち抜いた西ドイツ代表は本大会で「マジック・マジャール」のハンガリーを倒し優勝、「ベルンの奇蹟」と呼ばれた事は……ああ、「午年」の最初に書いてましたね。

【コラム】2014年新春企画・「午年」から見たW杯優勝チームは?
https://qoly.jp/2014/01/06/20851-20140106-nakanishi...

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もう一度紹介、「ベルンの奇蹟」
(DVD、 http://www.amazon.co.jp/dp/B000AM6QZ6/

この大会では抽選はなく、1回戦からの組合せも全部レキップによって定められていました。1.FCザールブリュッケンの相手はイタリアの強豪、ACミラン。他の7カードは1955年の9月に始まりますが、ここだけは11月1日に1stレグ、他では準々決勝すら組まれていた11月23日に2ndレグが行われる事になりました。

しかしその間に、全てを覆す大事件が起こります。

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