「ザール十四番勝負」

これで1.FCザールブリュッケンは追い込まれます。1949年5月23日、コンラート・アデナウアー首相によるドイツ連邦共和国、後の西ドイツが発足していましたが、フランスはオーバーリーガへの復帰は認めません。しかし、フランスリーグからは締め出されました。あとはザール内でのリーグ戦ですが、これでは規模が小さすぎ、クラブを維持できないのです。

そこで考えられたのが「国際ザールラント・ポカール」。この大会は「番勝負」方式が採用されました。将棋や囲碁のファンならばご存知でしょうが、欧州各国からクラブチームを招き、全てザールブリュッケンのシュタディオン・キーゼルヒュームスで対戦するのです。そして最後に、1.FCザールブリュッケンとそれ以外の上位3チームによる決勝トーナメントを開催します。その結果は<表2>、同じく「100 Jahre FCS」とRSSSFから。

<表2>1949/50年の「国際ザールラント・ポカール」の結果

対戦相手はフランスが5つと最多ですが、7カ国に及ぶ「インターナショナル大会」でした。1.FCザールブリュッケンはこの14試合で10勝1分3敗。最後にフランスに復帰したメスに敗れたものの、好成績でした。そして結果的に自分が負けた3チームを改めて招待した決勝トーナメントで、ハイデュク・スプリット(当時ユーゴスラヴィア、現クロアチア)とスタッド・レンヌに勝利し、見事にホームチームとして優勝しました。この大会の観客動員数はあまり上がっていませんが、決勝戦では2万人と記録されています。

続く1950/51年シーズンも「第2回国際ザールラント・ポカール」が始まりましたが、いくつか重要な変更がありました。同じザールラントからVfBノインキルヒェンが参加し、H&A方式が導入された事(ただし詳細は不明)。そして何より、西ドイツのクラブとの対戦が解禁されました。1.FCザールブリュッケンは敵地でのTSVミュンヘン1860戦から始まり、1.FCカイザースラウテルンとも3シーズンぶりに公式戦で対決しました。

しかし、冬の中断期間が終わり、新年で2試合目となった第17節のTuSノイエンドルフ戦の後、このポカールは中断されます。それは、翌シーズンからザールラントのチームが西ドイツのオーバーリーガへ復帰すると発表されたため。そうなれば、経済的にも見合わないこの大会を続ける意味はありませんでした。

FIFA会長に留まっていたジュール・リメが「1.FCザールブリュッケンは欧州で最も興味深いクラブ」と語ったとされるように、このクラブはその立場と強さの両方で注目されていました。クラブ公式サイトで掲載された"111 Jahre 1. FC Saarbrücken"(「1.FCザールブリュッケンの111年」)では、リメの言葉に続き、敵地でレアル・マドリードにビンケルトらのゴールで4-0と勝ち、イングランドではリヴァプールと1-1の引分、そして1950/51年シーズンの最後は再び2万人を集めたホームでの親善試合でシャルケ04に5-0と圧勝した事が記されています。

そして1951/52年、1.FCザールブリュッケンは4シーズンぶりの南西地域リーグで復帰即優勝を果たし、西側だけで行われたドイツ選手権でも2度目の決勝進出。VfBシュトゥットガルトとは接戦になりましたが、2-3で敗れています。激変を挟んで9年ぶりに挙げたこの結果が、同大会での最高成績です。

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