夢は遠くなっても

1957年1月1日、サール条約によりフランス保護領サールは消滅し、ドイツ連邦共和国を構成するザールラント州として編入されます。既にサール代表も活動を止め、第2回チャンピオンズカップにも1.FCザールブリュッケンはいませんでした。国際的な活躍の場が無くなったこのクラブの実力は徐々に下降します。この1956/57年は南西地域リーグ2位、1960/61年は9年ぶりの同リーグ王者として8チーム出場のドイツ選手権に登場しますが、いずれもグループリーグで最下位でした。

1963年、西ドイツでブンデスリーガが組織されると、1.FCザールブリュッケンは16チームの1部創設メンバーに入りました。ただ、南西地域リーグで選ばれたのは前年優勝の1.FCカイザースラウテルンと5位のこのクラブだけ。地域性に加え、2位のボルシア・ノインキルヒェンに優先された過去の実績が重視された選考の結果は最下位。新設されたレギオナルリーガへの降格でした(代わりにボルシア・ノインキルヒェンが昇格)。その後のクラブの在籍リーグのグレード(部)は、<図1>の通り。

<図1>1963/64~2014/15年で1.FCザールブリュッケンが在籍するリーグのグレード(部)

1976/77年、1.FCザールブリュッケンは13シーズンぶりにトップリーグに復帰し、14位で残留しました。しかし、翌シーズンは降格してブンデス2部へ落ち、1985/86年と東西統一後の1992/93年は1年で逆戻り。その後はブンデス2部と南部レギオナルリーグの往復が続きましたが、2005/06年からは初の2年連続降格で4部相当になった南西オーバーリーガへ落ち、2008/09年にはブンデス3部の創設でとうとう5部所属になりました。

ここでようやく歯止めがかかり、今度は2年連続昇格を遂げて、2010/11年には初のブンデス3部に参加しましたが、2013/14年は2度の監督交代という混乱の結果、最下位の20位で4シーズン守った全国リーグから落ちました。2部のエルツゲビルゲ・アウエからレンタル移籍し、半年で14試合に出場した石原卓(元横浜FM、徳島)の奮戦も実らず、2014/15年の新シーズンは南西レギオナルリーグで戦います。

正直、この1.FCザールブリュッケンがいつトップリーグに、ましてチャンピオンズリーグに戻れるのかは全く分かりません。ザールラントでの石炭採掘も、250年間に約15億トンという膨大な量を産出して独仏両国の経済やヨーロッパ統合を支えた後、2012年1月に最後の出荷を終え、新しい時代に入っています。

それでも、こんなきっかけから60年前の激戦に光が当たり、「もう一方のクラブ」がその歴史に翻弄されながらも1世紀を超えて存続している事は、ぜひ気に留めたいと思います。これからもそんな記事を見つけながら、皆さんに紹介していくつもりです。


ザールラント州(黄色)とその周辺の地図。
州都ザールブリュッケンの北東にノインキルヒェンの町。
カイザースラウテルンはザールラントの東側、メス(メッツ)は南西側。
出典:"Maps of Saarland" in "Maps of Germany"
http://www.maps-of-germany.co.uk/map-of-saarland.h...

<参考資料>

1.FCザールブリュッケン公式サイト 2014.04.18付記事
"111 Jahre 1. FC Saarbrücken"

http://www.fc-saarbruecken.de/node/2942

ファンサイト「100 Jahre FCS」
http://www.100-jahre-fcs.de/

ゲールハルト・フィッシャー他著、田村光彰他訳『ナチス第三帝国とサッカー』(現代書館、2006)
http://www.amazon.co.jp/dp/4768469191


頂上決戦をした国は?

さて、今回の問題は、ちゃんと(?)決勝のカードにちなんで。

ご存知の通り、リスボンで実現したのはアトレティコ・マドリードとレアル・マドリードという史上初の同都市ダービーで、かつ14シーズンぶりで2度目の「スペイン対決」です。

このように、各大陸連盟のクラブ王者決定大会で「決勝での自国対決」を実現させた国は、一体いくつあるでしょう。ただし、英国4協会はそれぞれ独立してカウントします。

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